まつ毛売りの少女

 東京都葛飾区に住む少女、長野貴美子は仕事を辞めてから毎日のように路上に店を出し、まつ毛を売り続けた。彼女は勉強もスポーツも得意でなく、小さい頃から褒められるものと言えばまつ毛の長さだけだった。「少女マンガのようだ」と初めて会う人には必ず言われ続けてきたので、将来まつ毛に関する職業につこうと思っていたのだ。
 しかし、現実はとても厳しく、まつ毛に関する職業というものはなかなか存在しなかった。貴美子はつけまつ毛を作る会社に入ったが、営業事務を担当させられ、まつ毛とは全く関係ない日々を送っていた。毎日電話をとり、伝票を整理し、社内行事のセッティングをする毎日。自慢の長くてツヤツヤと光るまつ毛もストレスで枝毛が増えてきたため、貴美子は仕事を辞める決心をした。
 退職理由はと問われて、まつ毛を売るつもりだと言うと、上司の神野は猛反対した。「まつ毛を売って食べていけるようになるわけがない。こんな不景気なのだから、無理に仕事を辞めないで、まつ毛を売るならネットなどで通販すればいいじゃないか」と。しかし、貴美子の頭には路上でまつ毛が飛ぶように売れる図ばかりが浮かんでおり、もはや社内で制服を着る自分が想像できなかった。
 退社する日、近所のとんかつ屋でささやかに開かれた送別会で、貴美子は同僚の1人1人に、まつ毛を配った。「これはきっとプレミアがつくから、一緒に働いていた皆さんにあげます」という手紙をつけて。もらった人々の大半は苦笑を浮かべていた。
 こうして貴美子は満を持して路上デビューを飾ったものの、まつ毛を買ってくれる人は誰1人としていなかった。それもそのはず、価格設定が高すぎたからだ。貴美子はまつ毛の相場がわからずに、1本2000円という破格の値段で売りに出していた。ある日通りがかった親切な老人が、こんな高い値段じゃ絶対に売れないから、1本20円くらいにしたらどうかと提案したが、それを聞いた貴美子は激怒した。この時は自分のまつ毛はそんな低い価値のものではないと思ったからだ。
 その後、親切な老人は何度か貴美子のことを心配して忠告したが、値段を下げる気はないようだった。やがて老人は来なくなった。
 そして10年が経ち、20年が経ち、貴美子のまつ毛はどんどん美しさを失っていった。貴美子が老人の言葉に気付いた時にはもう遅かった。この20年、値段を全く下げようとしなかったことを反省し、白髪の混じったパサパサのまつ毛にプライドをかなぐり捨てて2円という値段をつけたが、それでも誰も買わなかった。
 貴美子がもし人生をやり直せるとしたらと想像する時、2つの分岐点が思い浮かび、頭を悩ませる。会社を辞めるべきではなかったのか、それとも老人の言葉を聞いて、あの時20円で売っておけばよかったのか。その答えは永遠に出そうもなかった。