季節と戦った女

 4月のある日の夜、一向に暖かくならないこのニセモノの春に腹を立てた柏戸美樹は、今年の春を今後一切なかったことにしようとした。つまり無視してやろうとしたのだ。
 季節にここまで真っ向から抵抗した日本人は初めてだろう。しかも私は女性だ。これはもしかしたら歴史に残るかもしれないと思い、美樹は興奮を抑えきれなかった。
 ならば一体何をすればよいのか。もしこのままのんべんだらりとした日々を過ごしていたら、春らしい春がしれっとした表情で来てしまう。そうなったらもう遅いし、美樹の敗北を意味することになる。美樹がまず思いついたのは、今から自分が春を一回飛ばしして、勝手に夏に突入してやろうという魂胆だ。もしこれが成功したら、遅い春が「ごめんなさい。ちょっと寝坊しまして」と謝りながらやってきたとしても、美樹は1人だけ夏を過ごしているのだから、春に全く影響を受けないことになる。
 そうなったら善は急げだ。美樹は夏らしいことをするために何をすればいいのか考えた。美樹は思いつくままに紙に書き出し、それらの品々を買いに出かけた。風鈴、花火、うちわ、浴衣などなど、夏の風物詩と呼ばれるものだ。しかし、近所の100円ショップにはまだ売っていないとのことだった。美樹は季節に黙って従っているこの国民全員に腹が立ち、100円ショップの看板を細い腕で何度も殴った。新歓コンパをやっている学生たちが怯えながらその脇を通ると、美樹は「おまえらは季節の奴隷だ!」と叫び、学生たちは走って逃げ出した。彼らはあまりの恐怖に、酔っ払っているにもかかわらず、いいダッシュを見せた。
 美樹は頭を抱えて、「夏、夏をくれ! 私に夏をくれ!」と叫ぶ。すると、どこからかやってきた中学生の女の子が声をかけてきた。
「何がほしいんですか」
 女の子は体育会系のようで、よく日に焼けていた。そしてスポーツバッグの中に何が入っているのか知らないがパンパンに膨れ上がっていた。
「夏よ。私は夏がほしいの。こんな、来るんだか来ないんだかわからない春なんて、断固無視してやるのよ」
「水着とかなら」女の子はおずおずと言った。「水着とかならありますけど、それじゃダメですか」
 美樹は女の子の足元にすがりつき、「ありがとうありがとう」とお礼を述べた。女の子は水泳部員で練習の帰りだったのだ。
「私の着たばかりの水着で洗ってませんが…」と言う女の子の声を背後に聞きながら、水着をもらった美樹は100円ショップの隣にあったダイエーのトイレに入り、20秒ほどで着替えた。少しサイズが合わずにパツパツだったが、なんとか身体を水着の中に納めることには成功した。
 水着に着替えた美樹がトイレから出て、化粧品売り場やスイーツ売り場を走ると、そこにはモーゼのように美樹のための道ができた。美樹はそのまま道路に出て、少女にもう一度礼を言おうと思ったが、彼女はすでにそこにはいなかった。
 ひとりで夏を両手いっぱいに獲得した美樹は、その日以来、女の子がくれた水着で毎日を過ごした。気温が思ったよりも低くて何回か風邪を引きかけたが、季節に負けなかったことを誇りに思った。6月の梅雨が来て、7月の夏がやってくると世間は盛り上がったが、そんな大衆の姿を見て、ずいぶんくたびれてしまった水着を着た美樹は「おせえよ! もう私のところにはとっくに夏は来ていたんだ! うはははは、ざまーみろ!!」と言って回った。