それ全部短編ですませちゃえば

 平成の怪人と呼ばれた棚田ギュコウは映画・小説・歌手・政治家として圧倒的な才能を思いのままに発揮していた。平成22年から32年の10年間は、元号を棚田と変えてもいいのではないかという議論が本気で交わされた。一部のコアなファンたちは、堂々と平成22年を棚田元年と言っていたものだ。
 この時期の芸術や政治や棚田一色で埋め尽くされた。棚田の作った映画、小説、楽曲などはチャートの上位を独占し続け、政治家としてもその演説力で数々のアクロバティックな外交を成功させてきた。
棚田のキャリアは、最初政治家としてデビューしたものの、その後、執筆した小説が芥川賞を受賞し、あとは映画、音楽とどんどんその活動範囲を広めていった。
 ではなぜ、棚田の時代が終焉に向かっていったのか。棚田の作る作品は小室哲哉つんくのように、時代と密接に結びついたばかりに時代遅れになってしまったものでなく、その後何百年も語り継がれるタイムレスな魅力に満ちたものだった。それは、平成22年に発表した作品が、平成32年になってもチャートの上位に食い込んでいたことからもわかる。まさに棚田はシェイクスピアモーツァルトのような存在であり、同時代に生きているものたちは棚田と同じ時間を共有していることに感謝の意を捧げた。
 ではなぜ棚田の時代はスパっと終わりを告げてしまったのか。それは棚田の作品がどれもあまりに長すぎたためだった。棚田の作る映画は平均60時間を超える。小説も全ての作品が全300巻以上であるし、楽曲ひとつをとっても1曲2時間を超えるものばかりだった。重要な法案の演説になると、第1部から第5部まで、およそ2週間をかけてぶっ通しで喋り続けた。それでも棚田の作品や演説は、長さを全く感じさせなかった。そこが天才の天才たるゆえんだった。
 しかし、これに対し、芸術や娯楽や政治に全く興味を示さない人たちからすれば、時間の浪費であるという批判も大きかったのは事実だ。彼らの主張としては、コンピュータの導入で全てのプロセスが簡略化されていく中、棚田作品のような長尺のものは、時代の流れに逆行するものであるということであった。教育委員会は子供の教育のためには棚田作品は害悪であるとした。そこで棚田の才能に嫉妬する政治家たちの包囲網によって、反棚田派の急先鋒、篠原首相が就任した。篠原首相は国会答弁で棚田を批判する際に、棚田の小説の中でも最も長い全365巻まである『明日への覚書』を持参し、「これ全部短編ですませちゃえばいいんじゃないの」という名言を残した。これを聞いて、国会中がいやらしい笑い声で包まれた。『明日への覚書』の内容は一人の寿司職人の人生を描いたもので、要約すると30ページで事足りるというのだ。篠原首相はこの他も棚田作品を次々と紹介し、いかに時間の無駄であるかを述べた。これに賛成する反棚田派は大歓声をあげた。棚田の存在が目の上のたんこぶだと思う政治家たちにとって、彼の失脚は何が何でも成し遂げたいことだった。
 こうして棚田の息の根を止めるべく作られた法律、時間短縮法が可決された。これによると、映画は3時間以内、小説は全12巻以内、音楽は1曲8分以内と定められた。これよりも長い作品を鑑賞したものは全て逮捕された。棚田の信奉者たちはこの動きに抗い、地下活動によって棚田作品を鑑賞したが、すぐに密告された。厳しく取り締まる人間はみな口々に篠原首相の口調をマネして、「それ全部短編ですませちゃえばいいんじゃないの」と言った。棚田はこの言葉を聞くたびに発狂しそうなほど憤ったと知られている。しかし、棚田派および棚田本人の抵抗もむなしく、この時間短縮の流れが覆ることはもうなかった。