私にはやりたいことがある

 会社の同僚の真中タダシの趣味は、人に「やりたいことは何ですか?」と聞くことらしい。真中はたいてい初対面の相手にこの質問をする。仕事上の付き合いでしかない人にもだ。俺はそのクセやめたほうがいいぞと忠告するんだが、真中は絶対やめない。この瞬間のためだけに生きているのだそうだ。
 もちろんこんなデリケートな質問だから、怒り出す相手もいる。こないだ俺が同席した打ち合わせでは、重要な契約を結んだ後だったにもかかわらず、真中がこの質問をしたことから相手は「無礼なことを聞くな!」と激怒。契約は破談になってしまった。
 今もこうして真中と俺は別の同僚が呼んでくれた合コンに出席しているが、真中がこの質問をしたくてウズウズしているのがジンジンと伝わってくる。血液型の会話が一段落したところで真中が咳払いをした。来るぞ、来るぞと俺は思った。
「えー、じゃあここでひとつ聞いてもいいかな? 君たちのやりたいことって何?」
 真中のこの言葉に女の子たちは困惑する。当然だ。こんなことを聞かれてスラスラと答えられる人間は今の日本には多くない。
 それまで汚れ役になって場を盛り上げていたショーコちゃんが、おちゃらけたトーンで答える。
「うーんと、ショーコはね。やっぱりお嫁さんになりたいかな。それで好きな人にために尽くしてあげるの。それがやりたい! 誰か私の旦那さんになって〜!」
 一同がクスクスと笑い、隣りにいたノゾミちゃんとカナエちゃんも「私もお嫁さんかな」「私も」とショーコちゃんに調子を合わせる。ただ、一番はしっこに座っているタマエちゃんはずいぶんと真剣に考えこんでいるようだった。
「タマエは? タマエは何がやりたいの?」ショーコちゃんがタマエちゃんに振る。タマエちゃんは下唇をしばらく噛んで考え込み、そして言う。
「私は…、私は、やりたいことがなくて悩んでるんです」
 この答えに他の女の子たちはあきれたような顔をする。その表情は、こんなお遊びの場なんだから、そんなに真剣に答えなくてもいいのに、適当に同調しておけばいいのに、と言っているかのようだ。
 しかし、この答えを聞いて、真中は非常に満足そうな顔を浮かべている。そうなのだ。真中はこの「やりたいことがなくて悩んでいる」という言葉を聞くことに何よりの喜びを感じると言うのだ。
「そういう真中さんは何かやりたいことはあるんですか?」タマエちゃんが真中に逆質問を投げかける。これもよく見るシーンだ。
「あるんだよねー」真中が答え、
「えー、何、何?」とショーコちゃんが横から茶々を入れる。
「それはまだ言えないんだな〜。でも俺にはやりたいことがあるんだ。だから人生、楽しくて仕方ないんだよ」
 いつもそうだ。真中のこの答えに、場は一気に盛り下がる。しかし、真中はとても嬉しそうだ。

 合コンが行われていた渋谷から、俺と真中は帰りの電車が一緒の方向だった。今日は入社以来ずっと疑問に思っていたことを遂に聞くことにした。
「でさあ、おまえの本当のやりたいことって何なの?」
「教えない」
「本当はさ、やりたいことなんてないんじゃないの?」
 俺がそう聞くと、真中の顔が一瞬だけ引きつるのがわかった。
「そんなわけないだろ。俺はそこら辺にいる奴らとは違って、やりたいことがちゃんとある人間なんだ。ある人間とない人間の差は大きな違いなんだぜ」
「そうかな。ちなみに俺は別にやりたいことなんて全くないんだけどさ、こっちのほうが普通だと思うぜ。昔さ、中学の先生に本田宗一郎の『やりたいことをやれ』って本を無理矢理貸してもらったんだけど、俺はやりたいことがないんでいいですって言って返したもん」
「おまえ終わってるな。やりたいことがないなんて、生きてて楽しいのかよ」
 そう言う真中の顔はとてもとても嬉しそうだった。俺はまた始まったと思いながら、真中がやりたいことがない人生がいかに空しいかといういつもの抗議を、隣に立っているOLのうなじに見とれながら適当に聞き流していた。