パンチドランクいい人

「足立くんって、とってもいい人ね」
 クラスで一番の美人の益子増子にそう言われ、足立恭二は喜びのあまりガクガクと膝が震え、ほとばしるエクスタシーが脳に鮮やかな幻覚を見せた。足立は皇居のような場所で数万人の日本国民たちに囲まれ、「いい人! いい人!」とのコールを浴びていた。そんな中、足立はステージを降り、みんなの話を聞き、最高の相槌を打ち、年配の方々に席を譲った。足立の口からは溢れ出るヨダレが止まらなかった。
「ちょっと、足立くん、足立くん!」
 益子増子の声に、足立は我に返った。気が付くと、自らの白濁したヨダレで黒い学生服は真っ白になり、周囲にいる女子生徒がキャーと悲鳴をあげて、廊下の隅へと走っていった。
「足立くん、大丈夫? あなた本当にいい人なんだけど、そういう行動が時たま気持ち悪いよね」
 益子増子から気持ち悪いと言われて足立は急激な不安に襲われた。足立は秒速2kmの速さでハンカチを取り出し、体中にまとわりついたヨダレと、廊下にこぼれ落ちたヨダレをふき取った。そのスピードは誰が見ても惚れ惚れするほどで、さすが学校一仕事ができて、学校一気が使えて、学校一いい人と言われる男ならではだった。
 あっというまに優等生の姿を取り戻した足立は姿勢をただし、顔に満面の申し訳なさを浮かべ、周囲の女子生徒に謝った。「ごめんっ。本当にごめんっ。昨日寝てなかったので、ちょっと疲れていたみたいだ」
 その言葉を聞いて女子生徒たちは安心したのか、再び足立のもとに集まってきた。
「足立くん、私の悩みを聞いて!」
「足立くん、私の宿題やって!」
「足立くん、うちの犬を散歩に連れてって!」
「足立くん!」「足立くん!」
 足立は「順番にね、順番にだよ。仕方ないなー」と言いながら、女子生徒たちの頼みをひとつずつ聞いて回った。そのたびに「足立くん、やっぱりいい人」と絶賛のコメントをいただいたが、足立は興奮を抑えるのに精一杯だった。このままだとまた失神してしまうかもしれない。そう思った足立は「ごめん、ちょっとごめん。僕トイレに行ってくるから」と言い、トイレへと駆け込んだ。大きいほうの部屋に入り鍵を閉め、足立は倒れそうになるのを必死にこらえ、興奮と快感を胸いっぱいに抱きしめた。
 足立は小学生5年生の頃まで、全く目立たない幽霊生徒だったが、ある日隣の席に座ったクラスで一番目立つ女子にノートを丸写しさせてくれと頼まれ、それを了承したところ、次の日から足立はいい人だという噂が学校中に広まり、いろいろと頼まれごとをするようになった。足立はこれまで人から注目されたことなどなかったから、うれしくてたまらなかった。心ない男子生徒は、おまえにプライドはないのかと批判したが、一向にかまわなかった。足立はいい人ねと呼ばれるたびに生きているという実感を強く感じ、いい人ねと言われるためだけに生きていた。モテない男の特徴として、「不潔な人」「細かい人」「愚痴の多い人」「暴力をふるう人」などの王道の項目と並んで「いい人」が項目にあがっているのを見たり、親からもいい人どまりだと彼女ができないと注意されたりもしたが、足立は決して世の中の流れに流されることなく、高校3年生までいい人としての不動の地位を確立することができた。
 ふと気付くと、男子トイレのドアがドンドンと叩かれている。
「足立くん、足立くん、次の授業サボりたいから代返しといて。もう先生来ちゃうから早く!」
 自分を待つ人たちのもとへ早く戻らなくちゃ。女子生徒の声を聞き、足立は顔を洗い気合いを取り直した。鏡に向かい、「もっと、もっと、いい人って言って」と呪文のように3回唱える。そして再び自分の戦場へと向かう。