ファンタジー作家になりたい

 システムエンジニアとしての限界を感じた松田コウスケは両親と面会し、職業を変更したい旨を話すことを決めた。息子が鬱病寸前の状態なのは知っていたから、両親はこの申し出を快く引き受けた。会談場所は中野坂上駅の駅構内にあるドトールだった。
 コウスケの父親は息子が案外元気そうな顔をしているのを見てほっとした。きっと転職することを決心して、気持ちが晴れたのだろう。母親は小さい頃から、いつ何時でもコウスケの味方だった。この日もコウスケがどんなことを言おうと、全て賛成するつもりだった。それは横にいる父親がたとえ反対しようともだ。
 コウスケはまず2人の分のオーダーを聞き、セカセカとレジまで走っていった。その俊敏に動く後ろ姿を見た母親は、コウスケはきっとウエイターに向いてるんじゃないかと思った。父親は少し違うことを考えていて、コウスケはきっと会社組織で先輩からこきつかわれて、あのように卑屈な動きを覚えてしまったのだな、と気の毒に思っていた。自分の場合もそうだったからだ。
 コウスケは父親の分のトマトジュースと、母親の分のアイスコーヒーと、自分の分のキャラメル豆乳モカフラペチーノをお盆の上に乗せて帰ってきた。母親はコウスケの持ってきた飲み物を指差して、それはなあに?と聞いたが、コウスケの口から出た答えは聞いたことのないものだった。父親はそれを見て、最近流行ってるんだよ、きっと、とフォローのような合いの手を入れた。
 そして、それぞれが飲み物の一口目をいただき、一瞬の間ができたところでコウスケは本題に入ろうとした。なんとなく父親から話を促されるのを避けたかったから、ここは自分から切り出すつもりだった。
「そうなんだよ。仕事、やめたんだ」
「で、どうするつもりなの?」母親が受け皿のように的確な相槌を打つ。父親は黙ったままだった。
 コウスケはもう一度フラペチーノに口をつけ、そして言った。
「ぼく、ファンタジー作家になりたいんだ」
 だいぶ長い沈黙ができた。そして母親が言った。
「何それ?」
「ファンタジーを専門に書く作家だよ」
 ここで父親が初めて口を開いた。
「作家って…。おまえ、昔から本なんて読んだことなかったじゃないか。お父さんがいろんな本をすすめてもおまえは見向きもしなかっただろう」
「大人になって変わったんだよ。ぼくは昔に比べて、ずっと本を読むようになった。でも普通の小説とかビジネス本とかは全然読めないんだ。主にファンタジーばかりだよ。だからファンタジーばかりを書く作家になれると思うんだ」
「好きというのと、なれるというのは違うぞ」父親がいかにも父親らしい意見を口にした。
「そんな、怒らないで。あなた。私はいいと思うの。いいじゃない、ファンタジー作家。もしよかったら、ここでコウスケちゃんの作ったファンタジーを披露してみてよ」
 母親のこの意見を聞いて、父親も譲歩する気になった。
「そうだな。俺はおまえが面白いファンタジーを作れるならそれでいいんだ。いろいろ考えてるんだろうから、聞かせてみろ」
「わかったよ、ほら」
 コウスケはカバンから原稿を取り出し、父親と母親にそれぞれ1通ずつ渡した。こういう展開もありえると思ったから、用意していたのだ。母親はメガネをバッグから取り出し、それを読んだ。父親の顔は見たこともないほど緊張しているように見えた。
 父親に渡した原稿は、オリックスバファローズの選手全員が交流戦中にドラゴンに変身してしまうという話だった。シーズンはもう始まってしまっただけに、球団はドラゴンのまま後半戦を戦うことを命じたが、ドラゴンになった選手たちはバファローズという名前では戦いたくないと言ってこれを拒否した。そこで困った球団フロントは、中日ドラゴンズにドラゴンズを二重使用していいかと問い合わせたところ、中日側はまさかの快諾。セパ両リーグにドラゴンズができたことにより、マスコミの人間が非常に迷惑を被った。
 一方で母親に渡した原稿は少々ホラー仕立ての内容で、エコバッグを忘れた主婦があまりの悔しさに顔が真っ赤になった余りトマトに変身し、買い物客から八つ裂きにされるという話だった。舞台となったスーパーは江古田駅西友で、その日の晩は八つ裂きトマトを持ち帰った主婦たちがミネストローネやミートソースをこぞって作ったため、街にはトマトの匂いが溢れた。
 読み終わった2人は原稿をトントンと机に叩き、顔を見合わせた。長年連れ添ってきた夫婦は、このアイコンタクトだけでお互いが何を考えているかがわかった。
「コウスケ、君はファンタジー作家はやめたほうがいいと思う。お父さんの知り合いの会社に頼んでみるからそこに就職しなさい」父親は静かな声で言った。
 コウスケはショックで母親にすがるような視線を向けた。しかし、母親は先ほどまでの優しい母の面影はなかった。
「言いにくいけど、私もそう思うわ。お母さんも昔はファンタジーとか好きだったからわかるけど、これでご飯を食べていくことは少し難しいと思うの」
 こうしてコウスケのファンタジー作家への夢は潰えた。その後、コウスケは父親の紹介で入った商社で働きながら、熱帯魚の飼育に夢中になった。