アングロサクソン氏の憂鬱な日々

 今日もまた、アングロサクソンというデタラメな名前を名乗るおかしな男が囲碁教室にやってくる。笹子はこれを恐怖する。アングロ氏が笹子の経営する囲碁教室にぶらりとやってきたのは、先週の木曜日だった。笹子の囲碁教室では見学は自由だから、たまにこういうおかしな外国人が紛れ込んでくることは少なくない。だがしかし、たいていの外国人が囲碁に少しでも興味を示すのに対して、このアングロ氏は黙って下を向いているだけなのだ。せっかくだから囲碁のルールを覚えていってみてはいかがですか?とカタコトの英語で話しても、ノーと言ったっきりまた下を向いてしまう。こうして見学初日は帰っていったから、笹子はもう二度と来ないだろうと思っていた。それなのに、その翌日も、翌々日も、アングロ氏は囲碁教室にやってきたのだった。
 アングロ氏はハローと言って入ってくると、そのまま見学用の椅子に座る。その横では生徒たちが熱い火花を散らして囲碁の勝負を繰り広げているのにもかかわらず、そちらに見向きもせずにただ下を向いているだけだ。最初、生徒たちは珍しい外国人が毎日来てくれることに喜んで話しかけていたが、次第に気味悪がって誰も話しかけなくなった。おかげでアングロ氏が来るまでは、愉快な会話で溢れていた教室も、沈黙ばかりが空間を満たす憂鬱な場所になってしまった。カツン、カツンと言った碁石を打つ音が室内にこだまするだけだ。
 そもそも笹子が胡散臭いと思うのは、この男がアングロサクソンなどと名乗っていることだ。なぜ名前がわかったのかというと、初日に連絡先を書いてくれと頼んだところ、渋々と書いたのがこの名前だった。汚い字で書かれた、Anglo Saxons。住所はNAKANOと書いてあるだけで、電話番号は記入されていない。笹子は外国人の友人がいないが、これがおそらく偽名であるだろうということだけはわかる。偽名を使ってまで、こんな外国の小さな囲碁教室に来る意味があるのだろうか? しかも、全く楽しそうではない。
 そんなことを考えながら囲碁教室の看板を拭いていると、アングロ氏がやってきた。今日もまたハローとだけ一言残して、見学用の椅子に座る。それまでペチャクチャと学校の話に花を咲かせていた子供たちがアングロ氏に気付いて気まずそうに黙り込む。美味しい佃煮の情報交換をしていたおじいさんたちは、その小さな背中をさらに小さくして、すまなそうに囲碁を打ち続ける。
 笹子はそんな状況を見て決意を固めた。今日こそはアングロ氏に真意を確めよう。かつかつとアングロ氏に近寄り、別室に来てもらうようにジェスチャーをする。生徒たちが自分に熱い視線を送っているのがわかる。アングロ氏はOKとボソリとつぶやいて、重たい足取りで笹子についてきた。事務書類などを置いてある別室に入り、ドアを閉め、アングロ氏にソファに座るようにすすめる。アングロ氏はまたしてもOKと言い、億劫そうに座った。
 笹子は拙い英語力で一生懸命自分の思っていることを伝えようとした。あなたの本名は何なのか。どこでこの囲碁教室を知ったのか。囲碁に興味はあるのか。そもそもこの教室に入るつもりはあるのか。
 そこまで笹子は説明すると、アングロ氏は言った。流暢な日本語だった。
「笹子さん、覚えていませんか。私はジョンです。ジョン・チャンドラーです。ほら、以前に英会話教室に先生をやっていた」
 笹子はそれで思い出した。学生の頃に若気の至りで3ヵ月だけ英会話教室に行ったことがあり、その時の先生がジョンだったような気がする。だけども、あれはもう20年も前のことじゃないか。そう説明すると、ジョンは答えた。
「僕はあの時、あなたが好きでした。それから20年は経ちましたが、あなたのことは忘れていませんでした。今あなたがここにいることを知ったのは、偶然立ち寄った床屋にあった囲碁雑誌にあなたのことが載っていたからなのです。私は信じられないような気持ちでこの囲碁教室に来ましたが、あなたは私に気付かなかった。当然ですよね、20年前はあなたは私のことをトム・クルーズに似ていると言ってくれたのに、今ではこんなおじさんですからね。アングロサクソンと書いたのは、本名を書く勇気がなかったからです。いや、むしろ偽名らしい偽名を書くことで、正体がバレたかったのかもしれない。私は囲碁にはあまり興味ありません。あなたにしか興味がありません。本当はここに来るたびに、あなたに話しかけようかどうしようか迷っていた。でも、恥ずかしくて顔をあげることもできませんでした。教室の雰囲気が悪くなっていたのは私も知っています。本当に申し訳なく思います。もう明日からここに来ることはありませんので、心配しないでください」
 笹子はなんと言ってよいかわからなかった。トム・クルーズに似ていると言ったことも覚えてなかったし、大学生の頃は決して目立った容姿だったわけでもないのに、ここまで好かれていたということがあまり実感が湧かなかった。それよりも何も、笹子は今はもう結婚して子供もいるのだ。どうしようがあるのだろう。
 笹子はあまり多くのことを語れずに「ごめんなさい」と言った。アングロ氏はその一言で全てがわかったようで、「ありがとう」とだけ言って帰っていった。アングロ氏がこの囲碁教室で笑顔を浮かべたのを見たのは、この時が最初で最後だった。
 アングロ氏はもう二度と現れることはなく、その翌日から囲碁教室は以前の活気あるものに戻った。笹子はアングロサクソンという言葉がテレビなどで流れるたびに、アングロ氏の憂鬱な顔が思い出されて、どこか申し訳ない気持ちになってしまう。