敬語のない国

 2012年の夏ごろから、日本で敬語を話す人間が少なくなった。相手が教師だろうと上司だろうとかまわずに、フランクなタメ口を聞く人間が増えた。別にそれは年齢や性別に関係ない。日本の言語から敬語という概念がなくなりつつあった。
 この動きを不自然に思った生活探偵アサグロ氏は数々の社会学者に聞き込みを重ねた。社会学者たちは、ゆとりだとか、少子化だとか、もっともな理由を並べ立て、この現象を解説しようとしたが、アサグロ氏は納得がいなかった。日本から敬語がなくなったら後に何が残る。個人よりも関係を重視する私たちだけに、その先にあるのはただのカオスじゃないか。
 アサグロ氏がしつこく聞き込みを重ねていると妙な情報に突き当たった。2008年頃から講演でこの動きを予知していた科学者がいるというのだ。科学者の名前は白金カタルと言い、学生時代には軽犯罪で逮捕されたことが多かったという。アサグロ氏はこの人物が何か知っているに違いないと思い、張り込みを続けた。すると、白金の家からは膨大な量の薬品がゴミとして捨てられていることがわかった。薬品の中身を友人の薬剤師に渡して調べてもらうと、驚くべき結果がわかった。この薬品はドトメルチロンパスと言い、人間の神経から尊敬の概念を奪ってしまう効果があった。この薬品を飲んだ人間は、相手を敬う気持ちを忘れ、全ての世代が友達に見えてくる。この被害を一刻も早く止めさせるために、アサグロ氏は白金を尋問することにした。
 アサグロ氏が白金の呼び鈴を押すと、奴はすぐに出てきた。
「キミは誰だね」
「とぼけるな。私は生活探偵だ。おまえがばらまいている薬品のことは知っているんだ」
 そう言うやいなや、アサグロ氏の目の前は真っ暗になった。白金の家の玄関には落とし穴が設置されており、アサグロ氏はその中に落ちたのだ。
「おい、ここを出せ!!」
 アサグロ氏は叫んだが、白金の笑い声が穴の中に響き渡るだけだった。

 それから3日が過ぎた。穴の中は携帯の電波も届かなかったため、アサグロ氏は誰にも連絡がつかなかった。白金はアサグロ氏を殺したくないからか、食べ物と飲み物は差し入れてくれた。3日も経つと、彼らは言葉を交わすようになっていた。
「白金、なんであんなことをしたんだ」
 アサグロ氏が犯行の動機を聞くと、白金はペラペラと喋った。
「私の親は昔から敬語に厳しかった。敬語が間違っていると、竹刀で袋だたきにされたものだ。その強烈なスパルタ教育のせいあって、私は中学生の頃のある時期を境に、敬語を使うことをやめた。すると、世界はバラ色のようだった。それまで怖い存在でしかなかった教師や上級生が急に身近に見えて、彼らと仲良くなることができたんだ。敬語の喋れない私は親から勘当された。だが、私はもともと理科が大好きだったから独学で科学者になったんだ。しかし、科学者は研究だけしてればいいというものではない。敬語が使えない私はすぐに社会不適応者とみなされ、派閥争いから脱落し、ろくな研究をまかされなかった。このとき私は思ったんだ。日本に敬語がある限り、それから逃れられることはない。それなら敬語をなくしてしまおうとな」
「そんな自分勝手な…。しかし、どうやってそんな犯罪を行うことができたんだ」
「簡単だよ。日本人でお米を食べないものはいないだろう。私は日本中の農家を回り、畑の中に薬品を染み込ませた。もちろんキミが調べ上げたあの薬品、ドトメルチロンパスだよ。ドトメルチロンパスの開発に私は15年を費やした。2007年に完成してそれから地道なテロ活動を行ったよ。言うならば米テロだな。最初は気の遠くなるような作業だったが、ニュースで敬語を使わない層が増えてきていると聞いた時は飛び上がって喜びたくなる気持ちだった。私は確信したよ。あと、1,2年でこの国からは敬語がなくなるだろうとな」
「米を食べない人間はどうなるんだ」
「そんな人間は日本にはいない。いてもほんの1%か2%だろう。だがな、たとえそんな少数が頑なに敬語を喋ろうとしても、我々日本人はすぐに多数に染まる人種だ。やがて敬語という概念は絶滅するよ」
「く、許さんぞ」
「いくらおまえがそんなに張り切っても無駄だ。この敬語がなくなったことで救われる人間はたくさんいるんだ。敬語なんてもともと必要ないんだよ」
「俺は、俺は喋り続けるぞ。たとえば私はほとんど米を食べない。極端なパン食志向なんだ。どうだ!」
「だから無理だと言っているだろ。おまえが食べたスープには、大量のドトメルチロンパスを入れておいた。試しに喋ってみればいい」
「おう、見てろよ。私は日本から来た。食べ物はたこ焼きが好きだ」
「ほら。もうおまえは敬語は使えない」
「くっ、丁寧な言葉遣いで喋りたいのに、喋れない。でも、変だな…。なんだか気持ちが楽になったみたいだ」
 アサグロ氏は自分の中で変化が起こっているのを感じていた。敬語を喋ろうと思っても喋れない。それならフランクな言葉遣いでいればいいじゃないか。
「わかったろ。それが俺のやろうとしたことだ。これから日本は変わるぞ。俺が英雄になる日も近い」
 白金の言葉に対し、アサグロ氏は何も言えなかった。今まさに、白金が本当に英雄になるだろうということを確信してしまっていた。敬語がなくなるのは寂しいが、これも時代の流れかもしれない。その後、アサグロ氏の予想通り、白金は英雄となった。フランクさを一段と増した日本人は海外からも親しみを持って迎えられるようになった。