あの子のまつ毛は杏仁豆腐の匂い

「まつ毛レビュー日記」。
 順太が帰宅した時に必ず見るサイトの名称だ。このサイトでは、管理人のシンペイさんがその日すれ違った女子のまつ毛を思い出してレビューするというものだった。順太はもともと筋金入りのまつ毛フェチで、男たるもの誰であれ、女の子を見て一番最初に見る場所はまつ毛なのだと思っていた。これまで付き合ってきた女の子もまつ毛が綺麗な女の子ばかりで、その中の1人がつけまつ毛だとわかった時にはあまりに悔しくてその場でフッてしまったこともある。
 そこでシンペイさんのサイトだ。彼の記憶力は驚くべきもので、電車の中で会ったOLやパン屋のお姉さんなど、その日会ったあらゆる女性のまつ毛を事細かに描写してくれていた。順太はそれを読みながら、頭の中で想像をめぐらせたものだった。
 この日、順太がいつもと同じようにサイトを開くと、気になる女性のレビューがあった。そこにはこう書いてある。



5月19日、晴れ。
場所は銀座の路上。
その子のまつ毛は杏仁豆腐の匂いがした。
色はチョコレートケーキ色で、触ったらうさぎの耳の毛のような感触がしそうだ。
僕はこのまつ毛だったら、一生見ていても退屈しないことだろう。
このまつ毛がどうやって成熟していくのか見守っていたい。
惜しむらくは、相手の素性が全くわからなかったことだが、
たぶん僕がこうしてまつ毛ばかりを追いかけている以上また会えることだろう。
もう一度このまつ毛を見て、気付かなったとしたら、僕はもう街を歩く資格はない。



 順太がその女性のことを想像すると、本当に杏仁豆腐の匂いが漂ってくるようだった。そして、無性に杏仁豆腐が食べたくなった順太は、近所にある中華料理屋へと出かけた。すでに夕食はすましていたが、杏仁豆腐を食べたくらいでは罪はないだろう。順太はダイエット中なのだった。
 華風と書いて「かふう」と読む近所の中華料理屋に行くと、客は誰もいなかった。くだびれたタキシードのような制服を着た中国人の青年が注文を聞いてくる。順太は杏仁豆腐とだけ答えた。
 すると、待つこと5分。順太は漫画雑誌を読んでいたのだが、杏仁豆腐の匂いがふっと耳の辺りから滑り込んできたから注文が来たのかと思って顔をあげた。すると、そこには先ほどの青年とは違う女性がいた。
「ごめんなさい。杏仁豆腐、今日ない」
 女性はどうやら厨房で働いているようで、杏仁豆腐が品切れしてしまったのを謝りに来たようだった。先ほどの青年は奥のほうからこちらをうかがい、順太と目が合うとすまなそうに目礼をした。
 しかし、この時すでに順太は杏仁豆腐のことなんてどうでもよかった。杏仁豆腐がないのに、杏仁豆腐の匂いがするのだ。順太はそこに立つ女性のまつ毛に思わず見とれて言葉を失った。そこにあるのは、チョコレートケーキ色で、触ったらうさぎの耳の毛のような感触がしそうなまつ毛だった。
 女性は順太の視線に気付き、「何かついてますか?」と聞き、順太はあわてて「いえ、なんでもありません」と答えて店を出た。
 順太は杏仁豆腐を食べることはできなかったが、僕だけの杏仁豆腐を手に入れた気分になっていた。明日もまたあの中華料理屋に行くだろう。そして、シンペイさんには悪いが、杏仁豆腐のあの子のまつ毛を毎日眺めさせてもらおう。