私の頭の中は消しゴム

 人はこのようにして、ゆるやかにダメになっていくのか。沢井一志はウイスキー片手にロッキングチェアーに揺られながら思った。沢井はふと足元に落ちていた紙とペンを取り上げ、数式を書こうとした。しかし、頭の中には数式はおろか、簡単な数字ですら出てこなかった。
 沢井は高校生の時に国際数学オリンピックで3位に入った。その後はとある大学の理学部数学科に入学し、将来は数学者としての道を期待されていた。しかし、大学の頃にボランティア活動にハマった彼は就職戦線からも脱落し、数学とは全く関係ないファッション系の会社に入社した。その頃はまだ数学オリンピックで鍛えた貯金があったから、会社の経理などで辣腕ぶりを発揮し、会社からは数学が異常に得意な人として重宝された。沢井自身はあれだけ頭の中が数字で埋め尽くされていた時代があったから、自分がその気になれば再び数学者になることは可能だろうと思っていた。
 しかし仕事に終われた沢井は、腰を落ち着けて数式をとる時間などほとんど取れないままに30歳になった。沢井はこの機会に仕事を辞めようと思い、数学に熱を入れようと決心した。会社はあっさりと辞表を受け入れ、沢井は数学に集中するはずだった。
 だが沢井はそこまで意志の強い人間ではない。約8年間の会社勤めで貯金した200万円は旅行と酒でほぼ底をつき、家にいながらテレビばかりを観る毎日となった。さすがに数学をやらなくてはならないと考えて、こうして数式を解こうと思っても、全く解けなかった。沢井はそれが自分の身体だとは思えなかった。あれだけ解いても解いても、数式を貪るように欲していた脳みそのある部分が今では全く機能していない。こんなことがあるのだろうかと思って、小学生の算数ドリルを買ったりもしても、満足に解くことはできなかった。
 沢井は今年で38歳になる。自分から数学をとったら何が残るのだろうと想像はしてきたが、今こうして数学をとってしまった現実がやってくると、本当に何も残っていないのが実感できる。この先どうやって生きていけばいいのか、沢井には全くわからない。前の会社で簡単な数式を解いて、事務の女の子にキャーキャー言われていた日々が無性に懐かしい。