ちょっとだけ絶望してみようか

 片尾甚太と金城丸太は小学校時代からの親友だった。甚太と丸太は日野市で生まれ育ち、今では2人とも社会人として別の会社で働いている。入社してから今年で5年目になるが、今でも会社帰りに2人で会うことも多かった。
 この日、2人は神田にあるドトールコーヒーで待ち合わせをしていた。7時と約束したのに、2人が到着したのは8時半。そう、2人とも時間にはルーズだった。そしてそもそも2人とも楽観的な人間で、これまで何かに悩んだという経験がなかった。
 2人ともコーヒーを頼み、何気ない会話が始まった。そしていつもの流れになる。甚太が言う。
「それにしても、日本の人ってどうしてこんなに悩むのが好きなんだろうか」
「本当だよな。俺もおまえみたいに悩んだことがないから、他の人と話が合わないのが辛いよ」
 一般的に言うと、同じようなタイプの友達と言うのは長続きはしないものだが、この2人はこの圧倒的に楽観的であることにより、周囲から疎外感を感じてしまうことが多かった。それゆえこうして長い間付き合うことができたのだ。
「なあ、丸太」と改まった顔で甚太が言う。
「なんだよ、そんな怖い顔して」
「今日は俺から提案があるんだけど、一度絶望ってものをやってみないか?」
「絶望? いいけどさ…。どうやってやるんだよ。俺ら、悩んだこともないのに」
「わからないよ。ただ、歌の歌詞でもよく絶望とか出てくるだろ? ああいう言葉の意味を理解するためにも、俺たち一度絶望しといたほうがいいと思うんだ」
 甚太のこの提案を丸太は面白おかしく受け入れた。そもそもこの2人が物事を否定することはほとんどない。
「そうだな。じゃあ、やってみるか。俺から行くぞ」
 そう言って丸太は暗い顔をして、ため息をつく。
「お、いい線行ってるな。じゃあ俺も」
 そう言って甚太は床に手をつき、「もうダメだ…」とつぶやいた。他の客がこそこそと視線を送ってくるのがわかる。
 丸太は甚太のこの絶望を見て刺激を受けたようだった。「おまえがそこまでやるなら、俺はそんなもんじゃないぞ。見てろよ」おもむろに立ち上がった丸太は、ドトールの外に走り出し、夜の街に向かって大きな声で叫んだ。「この世なんてなくなっちまえばいいんだ!」
 その声はドトールの中にも響き渡った。それまで本を読みながら静寂を楽しんでいたOLや学生なども迷惑そうに入り口に顔を向けた。
 丸太はそれ以上の絶望を思いつかなかった。甚太が入ってくると、「負けたよ。完敗だ。おまえがあんなに絶望できるとは思わなかった」
「だろ? 俺もやってて驚いたよ。人間ってああいう風に絶望するんだな。これで明日から会社の奴らの会話にも入っていけるよ」


 そして丸太は翌日出社し、同僚たちに向かって面白おかしく昨日の話を語った。
「昨日さ、学生時代の親友と会ってさ、2回も絶望しちゃったんだよね」
 それを聞いた同僚たちはきょとんとした顔で聞いていた。そのまま丸太の話はゆるやかに流され、やがて自分たちの給料の低さや仕事の悩み、家庭での問題などの一連の暗い話が始まったが、丸太は入っていくことができなかった。甚太も然り。