たそがれの4番打者

 梅頭マサルはその夜、オレンジレンジ祭りと称して、オレンジレンジのこれまでのCDを夜通しぶっ通しで聴こうと計画していた。オレンジレンジはこれまでオリジナルアルバム6枚を出しており、その他にもミニアルバムやリミックスアルバムなどの企画盤がある。夜8時ごろから聴き始めれば、夜が明ける頃には聴き終わるだろう。
 マサルは大学を卒業し、一時は新卒で就職していたが、上司のパワハラに体が悲鳴をあげて退職した。現在はこうして療養しながら体を回復させ、落ち着いたら再び就職活動をするつもりだったが、とにかく時間が有り余って仕方なかったため、こういう無駄な時間の使い方をよくしていた。
 オレンジレンジの4枚目のアルバム『ORANGE RANGE』を聴き終わった頃、時計を見てみると夜1時を回っていた。これはいいペースだとマサルは自分に酔い、5枚目の『PANIC FANCY』をコンポに入れた瞬間、窓の外におかしな気配を感じた。マサルは霊感が強いほうではない。ただ、窓の外には確実に何かの存在があると感じた。部屋の中には武器になるものは何もなかったから、おずおずと窓に近づき、カーテンをこっそりと開けた。すると、そこにはプロレスラーと見まがうような体つきのいい男が立っていた。
 マサルが驚きのあまり息を止め、警察を呼ぼうかとパニックに陥っていると、男は落ち着けと身振りで表し、服の背中に書いてある数字とアルファベットを見せてきた。そこには「5 TENRYUJI」と書いてあった。マサルは野球には詳しくなかったが、その男が伊藤園ジャガースに所属する天竜寺真彦だということはわかった。なぜ天龍寺がこんなボロアパートの庭にいるのかわからなかったが、とりあえずマサルは窓の鍵を開け、天竜寺を中に招きいれた。
 天竜寺はマサルがすすめたぺットボトルのファンタグレープを美味そうに飲んだ。
「ありがとう、喉が渇いて倒れるかと思ったよ」
天竜寺さん、どうしたんですか? 今日は休みなんですか?」
 マサルがそう聞くと、天竜寺は一瞬黙り込み、そして答えた。
「もう俺は球団に戻らないかもしれない」
 天竜寺が言うところによると、こうだった。天竜寺は今シーズン、プロ入り始まって以来の不振に陥り、打率1割にも満たない成績が続いた。天竜寺は3億の年俸をもらい、今年も4番打者として期待されていたから、チームの低迷の戦犯にあげられることが多く、ファンからの野次は容赦なかった。愛車のベンツは10円玉で傷だらけにされ、ある日、愛犬のココアが丸刈りにされ、マジックで「0割打者」と書かれていた。無言電話は1日50件ほどあり、インターネットの掲示板は中傷の嵐だった。天竜寺は13年もプロの第一線でやってきた打者だったが、こんな不振もいつかは終わりを告げるだろうと楽観視していた。しかし、不思議なほどに球は見えず、状況は全く良くなることはなかった。
 相撲取りだったら、今場所は休場といって退散し、星取表に「や」が並べばそれですむ。しかし野球はそうはいかない。天竜寺は監督に2軍へ落としてもらうように直訴したが、監督は首を縦に振らなかった。監督もいつかは復調すると思っていたようだった。
 天竜寺はこの日の試合の打席でも5度の好機で凡退を繰り返し、チームは惨敗した。天竜寺が駐車場に行ってみると車が燃やされていた。天竜寺はこのままだとファンに殺されると思い、ユニフォーム姿のまま逃げてきたということだった。
 マサルはそこまで話を聞き、天竜寺に同情した。うちは何も遠慮はいらないから、いたいだけいてくれていい。そう言うと、天竜寺は涙した。
「君は野球に詳しくないのに、申し訳ない。僕はカレーライスだったら作れるから、毎晩カレーを作ってあげるよ」

 こうしてニートと野球選手の共同生活が始まった。天竜寺の姿は目立つから、マサルがキャッシュカードを借りて現金を引き出し、食糧の買い出しを行った。食材を調達すると、天竜寺がカレーを料理した。夜は2人でナイター中継を見た。最初マサルは気を遣って、NHKのドキュメンタリーをつけたりしていたが、やっぱり試合結果は気になるようだった。
 ニュースでは連日、天竜寺の行方不明事件が報道された。しかし、2週間も経つと、報道も落ち着きを見せ、きっと成績不振のために海にでも身投げしたのではないかと噂されるようになった。元女優だった妻は仕事に復帰し、今度の映画の主演も決まったようだった。世間は天竜寺のことを完全に忘れかけていた。
 ジャガースの成績は天竜寺がいなくなってから連勝街道を走っていった。その原動力となったのは天竜寺の後釜として4番打者に座った若干19歳の守屋新五郎だった。守屋はドラフト6位で入った無名選手だったが、その雑草魂を生かして打ちまくり、月間MVPにも選ばれていた。天竜寺は守屋の活躍を見ると、いつも複雑そうな顔を浮かべた。マサルはそんな時、なんと声をかけていいかわからなかった。
 そして3ヵ月が過ぎ、ジャガースは2位に終わった。クライマックスシリーズも敗退した。天竜寺は事実上引退したことになっていた。世間はマサルと毎晩カレーを食べていることなど知らなかった。
 マサルはというと、天竜寺とさすがに一日中家で顔を合わせていることが気詰まりとなり、就職活動を再開した。1年くらいかかるだろうと思っていたのに、1社目で内定がとれた。天竜寺がCMにも出演したことのある、大手の証券会社だった。天竜寺は内定の知らせをマサルに聞いた時、おめでとうと言ってくれたが、その目の奥にあった寂しそうな光をマサルは見逃さなかった。
 こうしてマサルが仕事に行くのを天竜寺が見送り、帰ってくるとご飯ができているという生活が続いた。その頃、天竜寺はマサルが買ってきた料理本で勉強し、カレー以外のレパートリーも増えていた。マサルのお気に入りは海老のマヨネーズ和えだった。
 やがてマサルには恋人ができた。恋人を連れ込みたい夜は、天竜寺が変装して外に出た。マサルと恋人は愛を育み、かくして結婚することになった。天竜寺は口では祝福の言葉を述べたが、その顔には明らかに嫉妬の感情が混じっていた。天竜寺はその頃、野球選手とは思えないほどに筋肉がたるみ、マサルの会社でメタボリック検診にいつも引っかかっている上司のようだった。
 マサル天竜寺にこう提案した。このアパートは引き続き契約しておくから、そこに住み続けてくれてもいい。自分は彼女と一緒にもう少し広い家を借りると。天竜寺は最初、自分も2人の新居についていくと無茶なことを言い出したが、マサルの再三の説得に折れて、アパートに残ることになった。
 マサルは新居の生活にすっかりなじみ、天竜寺のアパートに行くことはもうなくなっていた。妻には天竜寺の存在を隠し通していたから、不自然に思われるのも嫌だった。
 ただ一度、結婚してから3年ほどが過ぎた時に、ふと天竜寺のカレーが食べたくなり、妻が実家に帰っている日に寄ってみることにした。妻はあまり料理が上手くなかったのだ。
 すると、アパートはすでに引き払われており、見たこともない名前が表札に掲げられていた。不動産屋に問い合わせてみると、天竜寺はしっかりと解約の手続きを踏んで出て行き、その後はどこに行ったかわからないとのことだった。マサル天竜寺の家の連絡先を知らなかったから、どこへ行ったか知る由もなかった。天竜寺の妻がテレビや映画に引っ張りだこなのを見ると、自分の家に戻ったようにも見えなかった。それならマスコミが報道するはずだろう。
 その後、マサルと妻がドミニカ共和国旅行に行った時のことだった。妻は元バックパッカーとかで、こういったわけのわからない国に行くのが好きだった。マサルは渋々と着いていき、妻がマーケットを散策するというので、ホテルの下にあるカフェでコーラを飲んでいた。すると、子供たちがマサルに近づいてきて、「ヘブンドラゴン」と声をかけてきた。何のことかわからず、ホテルのフロントの男に聞くと、「ヘブンドラゴン」という名前のアジア人野球選手がいて、現在ドミニカリーグで活躍しているという。マサルはその名前を聞いて、天竜寺に間違いないと思った。フロントの男に球場の場所を聞き、妻が帰ってくるのを待たずに出かけた。球場に行くと、さらに多くの男から「ヘブンドラゴン」と声をかけられ、スタンドには汚い布に「ヘブンドラゴン」と描かれた旗がいくつも振られていた。
 マサルが試合に目をやると、ちょうどそこには真っ黒に日焼けしたアジア風の男がブンブンと素振りをしてバッターボックスに向かっていった。それは間違いなく天竜寺だった。天竜寺はマサルが見に来ていることなど気付かず、涼しい顔でボールをスタンドに叩き込み、ニコリとも笑わずにダイアモンドを一周した。