わたしはきっと知っている

 わたしの記憶にはひどくムラがあるらしく、そのお陰で周りの人々に迷惑をいつもかけます。たとえば、道ばたで高校の同級生にあったとします。わたしの記憶が調子いい時は、これが誰だか気付き、自分から声をかけ、立ち話を楽しむことでしょう。しかしながら、記憶がうまく働かない時は、向こうから声をかけられても誰だかわからずに、怖がって走り去ってしまうのです。
 わたしにとって記憶とは水面に浮かぶほんの少量の油のようなものです。水面のある一部分を爪楊枝か何かでつついた時、油に当たることもあれば、当たらないこともあるでしょう。さっき爪楊枝を水面につけた時は油に当たったのに、次につけた時は全然油がついていない。このようなものなのです。
 親や友達はこのあやふやな記憶のせいで、ずいぶん痛い思いをしました。わたしがあるタレントの話を楽しそうにしたとして、それを覚えていた友達がわたしにそのタレントの文房具を買ってくれたとします。それでもわたしはそのタレントが誰だかわからないため、なんでこんなものを買ってくれたの?と怪訝な顔をしてしまいます。わたしの記憶に問題があると知っている友達は、また潤子がしでかしたと笑ってくれますが、新しく知り合った人たちはただただ驚いて、わたしから離れていってしまいます。だって、彼らにとってみれば自分のことですら忘れられる可能性があるのだからたまったもんじゃないですよね。一緒に積み上げていった記憶が全部パーになってしまうと、人は本当に不安な気持ちになるようです。
 わたしの親友である駒倉仁美とはよく秘密の遊びをしました。でも、わたしがそのほとんどを覚えていないため、彼女はまるで自分が嘘をついているような気持ちになるそうです。
 わたしは今、小さい頃から褒められてきた顔の可愛さを認められ、たまに女優や歌手の仕事をしています。名前は誰だか明かすことはできませんが、わたしのことに詳しい人ならもうおわかりでしょう。わたしが映画やドラマに出ると、せっかく覚えた台詞はおろか、その作品のストーリーまで忘れてしまうことがあるため、監督さんや演出家の方はそのたびに一から説明しないといけません。時には共演者の名前まで忘れてしまいますから、周りの人たちには忍耐が必要とされます。わたしの出るドラマや映画が、通常の作品よりも撮影に5倍の時間がかかるのはそのためです。でも、それでも出演依頼が絶えないのは、やはり視聴率がとれているからでしょうか。これは決して自惚れとかではなく、申し訳ないなあという気持ちでいっぱいなのです。
 生放送の歌番組に出ることも一時はめっきり減りました。だって歌詞が全部飛んでしまうこともあるし、たとえADの方が歌詞のカンペを渡してくれたとしても、メロディを覚えていないのですから、お話になりません。コンサートではファンの方々が合唱してくれますから、なんとかなるのですが、生放送の歌番組で立ち尽くす姿は本当に見るも無残です。わたしは何度かVTRで観ましたが、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になりました。ただ、わたしのそういうハプニング映像がよく出回るようになってからは、なぜか再び生放送の歌番組への出演依頼が来るようになったのです。どうやら、わたしの歌詞忘れ、メロディ忘れはわたしの芸風として世間に認められたようで、その姿を見たいというリクエストが多いようなのです。テレビ局によってはわざと忘れたふりをしてくれ、そのほうが視聴率が上がるからと失礼なことを言う局がありますが、わたしはそんなことはできません。ただ、3回に1回は忘れてしまうので、あまり大きなことは言えませんが。
 この手紙は誰かに向けて書いていたはずです。でも、ごめんなさい。誰に向けて、何のために書いていたのか忘れてしまいました。他にも書きたいことはいろいろあったはずなのですが…。しかも、これは本当にわたしが書いたものなのでしょうか。でもきっとこうして文字を打ち続けているのだから、わたしが書いたのでしょう。今現在この瞬間は爪楊枝はきっと油が全くないところにいるのだと思います。一度寝たらきっとまた爪楊枝は油の場所を探し当てるはずなので、ちょっとひと休みしてまたこの手紙に取り掛かりたいと思います。