寝顔物語

 国民的アイドル・坂田ましろのことを知らない人は今の日本にはいないだろう。坂田は文武両道で才色兼備を地で行く人だった。彼女は子供の頃、新体操の金メダルリストになり、その後出版した小説がベストセラーに。シンガーソングライターとしてミリオンを突破するアルバムを何枚も作り、紅白歌合戦の常連となった。小さい頃にアメリカに留学していて英語も堪能だった彼女は海外にも進出し、グラミー賞にも選ばれた。その後数多くのハリウッド映画にも出演し、一時はニューヨークを拠点に置いていたが、24歳の頃に日本へ戻ってきて、突然政党を立ち上げた。彼女が作った「歩く党」は議席を猛烈な勢いで増やしていき、やがて与党になった。彼女は26歳の若さで総理大臣になるも、4年の人気を満了すると、「わたしには他にもやらねばならぬことがある」と言って政治家を引退した。引退セレモニーは史上初めて国会内で開かれ、その模様を生中継したテレビ番組の視聴率は65%を超えた。
 このような天才が次に何をやるのかと考えていたところ、彼女は再びアメリカの大学院に行き、宇宙科学だとか自然科学とか、僕たちファンにはまるでチンプンカンプンなことを勉強していたようだ。彼女はアメリカのマスコミも常に追いかけていたから、パパラッチから大学院の学食でランチを食べる姿がよく撮られていた。そして彼女は29歳の誕生日をマジソンスクエアガーデンで行い、突然「結婚します」と発表した。
 当然世界中の人間は相手は誰かと騒いだが、彼女はまだ決めていない、これから決めると言った。
「これまでいろんな男性と付き合い、彼らのことを見てきました。わたしはわたしなりに、人間の心理学や宇宙の法則なども勉強してきました。そこでわかったのが、人間は寝顔でわかるということです。わたしはこれから応募してきた男性の全員の寝顔を見ます。そこでわたしが一番だと思った男と結婚します。そう、みなさんにチャンスがあるのです!」
 これを聞いた世界中の男性が飛び上がって喜んだ。モザンビークから、ホンジュラスから、ラトビアから、あらゆる国のあらゆる年齢の男性が応募し、その数およそ23億人だったと言われている。さすがに23億人の寝顔を見ることは不可能ではないかと言われた。しかし、彼女はそれをやってのけた。
カナダのグロス・モーン国立公園のテーブルランズに集められた男性たちは半年に渡って、それぞれ1人1回寝顔を披露した。ここに暖房が備え付けた坂田は、24時間眠れる暖かい空間を作り上げた。男たちが眠ると、ヘリコプターから超高性能カメラがそれをとらえ、作戦本部のある彼女の元に映像が送られた。彼女はそれを怖ろしいほどの速さで見て、自分がもっとも素敵だと思う寝顔を選び続けた。多いときには、60万人が寝ているという圧巻の光景だった。
 僕が参加したのは、作戦開始から3ヵ月が経った6月のことだった。ここで少し僕のことを話そう。僕は坂田ましろを新体操時代から追いかけていた熱烈ファンだった。その後、アメリカに行きハリウッド女優になっても、僕は給料を切り詰めてアメリカまで追っかけに行った。彼女からもらったサイン色紙は30枚にものぼるが、それは全て部屋の壁にかけてあった。最初彼女がこの寝顔プランを発表した時、23億分の1の確率だから絶対に自分が選ばれるわけはないと思ったが、その後、ふと自分のおばあちゃんに昔言われたことを思い出して参加することにした。それは僕が小さい頃、おばあちゃんによく言われていたことだった。
「恒男、おまえの寝顔は世界一美しいよ。もし寝顔選手権をやったら、恒男が金メダルだね」
 そのおばあちゃんの言葉を励みに、僕は選考が行われる6月まで寝顔を磨き続けた。いや、磨き続けたと言っても何もやることはないのだが、なるべくリラックスした状態で、最高の寝顔を作れるようにコンディションを持っていったつもりだった。
 実際、これは真実だと言われていた。たとえば、寝顔がカザフスタンでもっとも美しいと言われていたボラットさんは、あまりの緊張のあまり寝顔が引きつってしまったと言ってテレビのインタビューで嘆いていた。その後、無事に結婚相手が決まった時に坂田ましろはこう明かしていたものだが…。
「あのとき、みんながコンディション、コンディションって言っているのを聞いて、あー勘違いしてるなって思ったんです。わたしはどんなに笑顔で眠っている人がいても、どんなに怒っている顔で眠っている人がいても、その人のことが手に取るようにわかります。でも、みんなが寝顔専門学校とかを設立して必死に練習しているのを見ると、あまりそういうことを言って水を差すのもどうかと思って、言わなかったんですよね。わたしってそういうところが意地悪ですよね」
 結論から言おう。こうしてその人の人となりを23億人分見ることを敢行した坂田ましろは、結婚相手を僕に決めた。僕はコンビニでアルバイトするしがないフリーターだったが、一夜にしてファーストレディならぬファーストボーイ並の扱いを受けるようになったわけだ。彼女は僕の寝顔をいつも写真に撮っては「うーん、美しい。さすが」などと言ってつぶやいている。