ケムノンくん

 ピンクに赤、ブルーにイエローにグリーン。これが持っている全てのスニーカーの色。髪型はいつもウェットなのにボサボサで、どこで買ったのか聞きたくなるような珍しい柄のTシャツに七分丈のズボン。手首と足首がかゆいのか、クネクネと変なダンスを踊り、ムッチョチョルチョ、ヘナモネラノラーと、不思議な歌を歌っている。そんな彼のことを、わたしと七重とミキはケムノンくんと読んでいた。
 わたしと七重とミキは同じデザイン事務所につとめるOLで、仕事の合間を見つけてはお喋りに興じていた。わたしたちの席は1階の窓際にあり、窓は通りに面している。そこの前をいつも午後3時頃に踊りながら通る男の子がケムノンくんだった。
 ケムノンくんと名付けたのはわたしだ。あの彼ちょっと気になるよねと七重が言い始めたのがきっかけで、わたしたちは彼が通りを通るたびに横目で凝視し、通り過ぎるとクスクス笑った。ある日、わたしが「なんかケムノンくんって感じだよね」と一言発したのがきっかけに、そのあだ名が女子たちの間では定着していた。わたしたちのお昼休みはだいたい1時半から2時半にとることが多かったから、お昼休みから会社に戻ってきて、仕事に身が入るか入らないかのところで、ケムノンくんがやってくる。彼の歌はガラス1枚を隔てているのにもかかわらず、よく響いた。そのホニャホニャした歌を聴き終わると、さあ仕事だ、となんとなくモードが切り替わったものだ。

 そんなある日、わたしたちの上司である千佐江さんが合コンの話を持ってきた。千佐江さんの知り合いのデザイナーの人たちとの合コンだった。わたしも七重もミキも彼氏には不自由していたから、迷わず即諾した。
 合コンが行われたのは金曜の夜で、場所は近くにあるうなぎ居酒屋だった。わたしたちは3人一緒に出発しようとしていたが、七重の仕事が少し遅くなったおかげで、待ち合わせ時間には少し遅れてしまった。わたしたちは20分ほど遅れてお店に到着し、千佐江さんたちがいる席に着いた。するとそこには、ケムノンくんが座っていた。
「ケムノンくん!」
 彼を見るなり七重が大声をあげた。わたしはあちゃーと思った。相手がケムノンくんって呼ばれていることを知っているわけがないのに。案の定ケムノンくんはわけがわからないといった表情でぼんやりとこちらを見ていた。千佐江さんが「えー、何? 知り合いなのー?」と聞いても、彼は首をかしげていた。
 結局、ケムノンくんに対して何もかも説明することになった。ケムノンくんが面白い格好をしてオフィスの前を通るからわたしたちが注目していたこと。ケムノンくんという名前はわたしが思いつきでつけてしまったこと(彼の本名は長瀬淳と言った)。おかしな歌を聴くのをみんな楽しみにしていることなど。
 ケムノンくんはわたしたちから大絶賛されたことに対して少し恥ずかしそうにしていた。同僚に男性は、「おまえ道を歩きながらでも歌っているのかよ。こいつオフィスでもそうなんですよ」と言って笑った。ケムノンくんが言うには、彼らの勤めるデザイン事務所はわたしたちの事務所から歩いて15分くらいのところにあり、わたしたちの事務所の隣にあるラーメン屋が大好きでいつも昼休みには来るとのことだった。
 わたしたちはケムノンくんのいるデザイン事務所の人たちと仲良くなり、その日は何事もなく別れた。翌日のオフィスでの井戸端会議では、わたしも七重もミキも昨日の合コンでは特に気になった人はいなかったということで一致した。ただケムノンくんと知り合えたことはよかったねとみんな言っていた。
 それからもケムノンくんは毎日のように午後3時にわたしたちのオフィスの前を通った。ただ、以前とひとつだけ違ったのが、ケムノンくんはわたしたちのオフィスの前を通るときに、もう変な踊りは踊らず、変な歌も歌わなくなっていた。普通の人っぽく歩いて、わたしたちに会釈をして過ぎていくのだ。
 七重とミキはケムノンくんとこうして挨拶をしあうようになったことを楽しんでいるようだった。ただ、わたしはとてもガックリしていた。もうあの歌が聴けないのかと思うと寂しくて仕方がなかったし、前にも増して仕事に身が入らなくなっていった。