エレベーターでの正しいあんパンの食べ方

 わたしが子供の頃、父親はいつもエレベーターの中であんパンを食べていた。もう少しわかりやすい説明にしよう。父親と買い物に行くと、父親は必ずあんパンを買っていた。そしてそのあんパンを帰り道で食べるのではなく、うちのマンションのエレベーターに入ると取り出して、うまそうに食べるのだ。父親曰く、マンションに帰ってきたという安心感でなぜか食べたくなるらしい。家に帰ってからゆっくり食べれば?と聞いたことがあったが、家に帰ると落ち着いてしまってあんパンなんか食べたくなくなるのだそうだ。
 そんな父親を見ていたわたしにも大きな影響が及ぼされていた。わたしの場合はもう少し屈折していて、とにかくエレベーターを見るとあんパンが食べたくなってしまうのだ。会社が入っているビルのエレベーターに乗り込むと、息ができなくなった人のようにあんパンの禁断症状が出る。ハアハアとのたうちまわり、周りがすっかり見えなくなっているから恥ずかしい動きをしてしまう。わたしはいつの日からか、この禁断症状を抑えるために、会社に行く時、もしくはエレベーターのある建物に入りそうな時はいつもあんパンを持ち歩くようにしていた。
 しかし、会社には部長や社長などのお偉いさんや取引先の人間が乗る時もある。いくらわたしがあんパンを食べたいからと言ってスーツ姿でバクバク食べていたらマナー違反で怒られてしかるべきだ。そこでわたしはあんパンを食べている姿を周りに見られないように、エレベーターに乗ると壁に向いて立つ。そしてスーツの袖に隠しておいたあんパンを5cmほどずつ滑り出し、ハムハムと小鳥のようについばむ。
 この要領で行けば、1階でエレベーターに乗って会社のある52階に降りる時まで、あんパンを1個食べ終わることになる。また逆も然りだ。昼休みの時に外出するのを入れると、出社時には合計4個のあんパンが必要となる。これに加えて、もしなんらかの用事で外出した時のことを考えて、保険のためにプラス5個のあんパンがカバンの中に用意してある。1日1000円をあんパンに使うとして、月に換算するとけっこうな出費だったが、エレベーターのある会社に所属している以上、これだけはどうしようもなかった。
 しかし、このように全ての計画がうまく行っていたと思った矢先のことだった。エレベーターの中で社長から話しかけられたのだ。それまでは顔見知りの同僚からも話しかけられないように、いつもうつむき加減でエレベーターに乗っていたが、その時はたまたま社長の右目の下に蚊がとまっているのを見てしまい、思わず目が合ってしまったのだ。社長はわたしの顔を知らないようだったが、フレンドリーな人だから自分の会社の社員に話しかけてきた。
「どうだね、君。仕事は順調かね」
「はい。いつも頑張っております」
「君はどこの部署だったっけか」
「サービス企画部です」
 そんな当たり障りのない会話を続けている中、わたしの禁断症状はピークに達し、ついにはあんパンを取り出してしまった。その瞬間、わたしは体中が悪寒に震え、すでに周りのことが目に入らなくなっていたから、社長の目の前で貪るようにあんパンを食べた。温厚なはずの社長は、自分との会話をあんパンで中断するとは何事かと激怒し、わたしはすぐさまクビにさせられた。
 わたしはその後、実家に帰ったおりに、なぜ会社を退職したのかを父親から聞かれた。わたしは「あんたが昔、エレベーターであんパンばかり食べてたからだ」と怒鳴り散らしてやりたかったが、ずいぶん小さくなって元気がなさそうな父親を見ていると、そうは言えず、「いろいろと新しいことにチャレンジしたくて」と言ってしまった。それに「あんたのせいだ」と言われたところで、父親には全く悪気がないのだから仕方がない。そして、今度はエレベーターに乗る必要がない1階の会社に就職しようと決めた。