旅行会社の誤算

 2010年11月のことだった。天気予報が今年一番の寒さになると告げたある日の午後、日本国内で6000人の人々が忽然と姿を消した。政府はすぐに北朝鮮の仕業ではないかと疑ったが、ここまで組織だった拉致は潤沢な資金と組織力がないと無理だったので、この疑惑はすぐに払拭された。おそらく日本国内にいる、まだ名前の知られていないテロ組織による犯行だろうという見方が最も有力だった。
 しかし、そんなキナ臭い予想とは裏腹に、この拉致事件の動機は実に平和的で建設的なものだった。日本国内で最大手と言われる旅行会社Hが、日本人の海外旅行離れに危機感を抱いて実行するに至った一大プロジェクトだったのだ。
 今日、日本人は明らかに海外旅行への関心を失っていた。国内の経済情勢も芳しくなく、そのせいでまとまった仕事の休みもとれない。そして何よりも、旅行より面白い娯楽が次々と溢れていたからだ。そこでHが極秘裏でとった行動が以下のものだ。海外の楽しさや素晴らしさといったものを、日本の各都道府県からピックアップした人々に教えることで、その周囲にクチコミで広めてもらおうというものだった。
 Hはネパールの田舎町を丸々借り切って、小さな楽園のような居住地を作り上げた。美しい山や湖などの大自然に囲まれ、気候は過ごしやすく、カレーやモモなどの料理も美味しい。隣の村にも徒歩で行くことができて、現地の人々も親切だった。治安はよく、犯罪もない。まさに多くの人々が海外旅行に求めるものの全てがその町にはあった。
 連れてこられた6000人の人々はすぐにこの場所を気に入った。昼間はトレッキングや湖水浴などのレクリエーションに興じ、夜には酒を飲んで語らったり、読書に耽るなどして心地よい時間を過ごした。彼らはHに感謝し、帰国したら仲間に海外の魅力を伝えようと意気込んでいた。Hの幹部も自分たちの企みが成功となることを確信し、深く満足していた。
 十分に魅力を知ってから、日本の人々に知らせないと、おそらくパニックになった家族や友達が早期の返還を求める可能性があると判断した幹部らは、彼らの拉致を1年間隠し通すことにした。この秘密は絶対に漏れてはならない案件だったので、幹部のトップクラスにいるほんの数人の者しか、この事件を知らなかった。
 しかし、この素晴らしい計画には残念ながら金がかかりすぎた。ただでさえ不景気な上に、6000人もの人々に1年間豪遊させたお陰で、Hの財政状況は逼迫し、遂には倒産することになってしまった。
 本来であればこの時点で、すぐに6000人は帰国の手続きをとられるべきだったが、Hにはもはや帰りの旅費を出すことができなかった。そこで国内の世論の批判を恐れた幹部らは、なんとこの拉致事件そのものを極秘のままに葬り去ることにしたのだ。
 残された人々は帰れるはずの1年が過ぎても、ちっとも帰国できないことに不審を抱き、自分たちの置かれた運命をとうとう知ることになる。Hからの資金的な援助もなくなったため、帰る方法もなくなった。連絡をとる術もわからなかった。
 村にはパニックは起こらなかった。彼らは狭い日本よりも遥かに暮らしやすい環境に満足し、それぞれがパートナーを見つけ、子孫を作った。しかし、この地域はその後200年もの間、誰からも発見されることはなかった。
 発見されたきっかけは、2310年に開催されたワールドカップにネパール代表が出場したからだった。ネパール代表はこの年、黄金のイレブンと呼ばれ、アジア予選を怒涛の強さで勝ち抜いた。それまではネパール代表と言えば、ネパール銀行と呼ばれるほどの弱小チームで、他国にあっさりと5点も10点も与えることで知られていたから、この変貌ぶりが多くの人たちの注目を浴びた。
 このネパール代表の顔ぶれを見た時、日本人は驚いた。誰もが日本人にしか見えなかったからだ。パス回しが上手く、決定力に欠けるところも日本人に似ていた。むしろ日本人よりものんびりしたサッカーだった。
 彼らはワールドカップのグループリーグを突破し、テレビにも多く映った。日本の視聴者たちは不思議な気持ちで相対したが、さらに驚かされることになった。なんと彼らは「おまえ、なにやってんだよー」「はやくボールよこせよー」と日本語を喋っていたのだ。この衝撃に世間が騒ぎ、マスコミが飛びつくと、彼らが200年前に旅行会社の誤算により連れてこられた日本人の末裔だということが明らかになった。
 そして決勝戦は日本代表とネパール代表という初のアジア対決となった。しかし、これは実質上は日本対日本のようなものだった。結果は日本が2対0で勝ったが、彼らが歩んできた数奇な運命は世界の誰もが知るようになった。それはワールドカップの準優勝よりも価値のあることだったと言えるだろう。