喜ばない隣人を叱ったOLの話

 日本戦が始まる30分前、テレビが壊れた。パニックに陥ったわたしは隣人の家にあがりこみ、テレビを見せてもらおうと目論んだ。隣人の顔は何度か見たことがある。おとなしそうな大学生風の青年で、体格も華奢で、性格にも問題がなさそうだ。わたしが部屋にあがったところで、きっと何もされないだろう。もしされたとしても、わたしの合気道が火を噴いて、逆に痛い目を見るだけの話だが。
 そうと思えば話は早い。わたしはできるだけ相手を刺激しないような男らしい服装に着替え、レッドソックスのキャップを深々とかぶった。鏡を点検すると、どこからどう見ても少年のようだ。しかもわたしは肩幅がゴツいので、少し強そうにも見える。準備は万事OKだった。
 ドアを開けると、外はジメッとした熱帯夜だった。周りを見渡すと、夜中の3時だというのにどこの家もテレビがついていて、ワールドカップへの注目の高さがうかがえた。わたしもこれから見ることができるんだ!と言い聞かせて、隣人の呼び鈴を押す。表札は初めて見た。名前は堂本銃三郎というテロリストのような名前だった。
 呼び鈴を押したが、誰も出てこず、わたしは小さくドアをノックした。こつこつ、こつこつと。しかしそれでも出てこないのでわたしは焦った。もしかしたら駅前のスポーツバーにパブリックビューイングにでも行っているのかもしれない。わたしはパニックに陥った。今からスポーツバーまで歩いたらきっと試合開始までは間に合わない。自転車はパンクして壊れているし、タクシーを呼ぼうか? 反対側の隣人の家に押しかけてみようかとも思ったが、そちらの家はアル中気味の中年のオヤジがひとり暮らしをしているため危険すぎる。時間ばかりが過ぎていく中、頭は全然いいように回転せず、わたしは引き続き堂本の呼び鈴を押し続けた。
 そんな時だった。ドアが開き、寝ぼけた風の堂本が出てきた。わたしは目を疑った。この男は寝ていたのか? 我が日本代表がビッグマッチに臨むというのに、のうのうと布団にくるまっていたのか? いい年した男が寝ているんじゃないよ!と説教したくなるのをこらえてわたしは言った。
「何も言わずにわたしを家の中にあげなさい。あなたにはそうする義務がある」
 わたしに負けずにその男の頭も回転していないようで、男は少しひるんだ様子で「どうぞ」と言った。わたしは玄関で靴を脱ぎ、小走りでテレビの前に向かう。堂本の部屋は驚くほど汚かった。この部屋で2時間を過ごすと思うとうんざりしたが、背に腹は変えられない。テレビをつけ、4チャンネルにセットする。するとちょうど両チームの国家が歌われているところだった。
 間に合った。わたしはホッとし、冷蔵庫まで歩き、何か飲み物がないかと物色した。冷蔵庫の中にはウーロン茶があった。この男は間違いなく、ペットボトルから直接飲んでそうだったから、戸棚にあった紙コップを取り出し、そこに注いだ。本当はビールでも飲みたかったが、ビールは冷蔵庫にはなかった。この男はきっと酒も飲まない、夜遊びもしない、友達もいないような退屈な男なのだろう。そのことに関する説教もしてやりたかったが、もう試合が始まってしまう。わたしはウーロン茶を持ち、テレビの前に戻る。堂本の物音がないので見てみると、奴はなんとまたベッドの中にもぐりこみ寝ていた。なんたる危機管理能力のなさ。わたしが金でもとって逃げたらどうしようと言うのだ。まあ、いい。これで何の心配もなく観られるというものだ。わたしは試合に集中した。
 試合内容はまさに激戦と呼ぶにふさわしいものだったが、最後は日本が逃げ切り、16強入りを果たした。わたしはあまりにホッとし、その場で眠ってしまいそうになった。だがその前にやることがある。わたしは堂本の頭をウーロン茶のペットボトルで殴り、起こした。7回ぐらい叩くと、奴はようやく目を覚まし、そしてまた寝ぼけた声で言った。
「誰ですか?」
「誰ですかじゃないんだよ。日本が勝ったんだ。それなのにおまえは寝ていたんだ。恥ずかしいと思わないのか」
「ごめんなさい」
 そう言って堂本は再び眠りに落ちた。こんな奴には何を言っても無駄だ。わたしはそのまま自分の家に帰った。しかし、何か落ち着かなかった。あと2時間もすれば出社しなくてはいけないが、心のどこかにイライラがあり寝付けない。わたしはそのイライラの原因を探ろうとし、その正体がわかった。こんなに興奮する出来事があったというのに、やはり眠っている隣人の無関心さが許せないのだ。わたしはもう一度堂本の家に行った。もちろん鍵はかかっていない。ベッドへと向かい、もう一度ウーロン茶で頭を殴って起こす。今度は2回目で起きた。
「なんですか?」
「頼むから少しは喜んだらどうだ? 日本が勝ったんだよ。歴史的な出来事なんだよ」
「よかったですね」
「そうじゃない。もっとこう、身体全体で喜びを表現してほしいんだ」
「はあ」
 朝の5時半に寝ぼけた人間に向かって何を言っても無駄だった。わたしは無理矢理堂本の身体を起こし、ハイタッチをし、ハグをした。堂本は最後までされるがままだった。
 だが、わたしはこれで充分に満足できた。そうなのだ。こうして一緒に喜ぶ人間の存在がわたしには必要なのだ。前の彼氏と別れてから、2年が経つ。そろそろわたしも新しい恋に向けて具体的な動きを見せないといけない。一瞬、この堂本でもいいかとの思いがよぎったが、その考えはすぐに打ち消した。そればかりは、誰でもいいにもほどがある。
 堂本にはこんなにスキンシップを施してやったというのに、手を離した途端またすぐに寝てしまった。わたしはもう気持ちが落ち着いていたので、家に戻り、明日に備えて寝ることにした。眠りに落ちていく中で、同僚に誘われて返事を保留していた今週末の合コンには出席させてもらおうと決意を固めた。