退屈の実

 こんなに刺激に満ちた世界の中で、退屈という言葉を使う人がいることを僕は信じられない。空の青さやカレーの辛さ、チョコレートの甘さや煮干の旨みとか、世界はどこをめくっても面白いことしか出てこないというのに。
 今日も父親が寝転がってテレビを観ながら「あーあ、なんか退屈だなあ」とつぶやく。母親もそれを聞いて「そうね退屈ね」と同調する。電車の中で会った女子大生の集団は「退屈だね」「なんか面白いことないかなあ」と口々に喚く。
 僕は彼らの神経がどういう構造でできているのか知りたい。彼らのそれはきっとステンレスのような硬い材質でできていて、金属バットでゴンゴンと殴ってもビクともしないに違いない。
 僕は生まれてこのかた、退屈というものを感じたことがなく、その感情がどういうものだかわからなかった。小学校の時の国語の授業で、教科書に退屈という言葉が載っていて、先生は「新しい言葉ですね。さあ覚えましょう」と言った。生徒たちはハーイと素直に返事をしていたが、僕はその言葉が持つものを大人になるまでイメージすることができなかった。斉藤和義が『幸福な朝食 退屈な夕食』を歌ったときも、どんな夕食なのかわからないまま曲を聴いていた。
 それが今は、あるモノをきっかけにして少し退屈と言うものがわかるようになった。僕は外出する時にだけ、ある実を食べる。その実を僕は、“退屈の実”と呼んでいる。退屈の実の作り方は醤油とゴマと小麦粉と、キウイの種があればいい。それらを温めて、こねて、少し冷やせばこの実ができあがる。
 僕がこの実を作るようになったのは、2年前のある日、本屋であまりの刺激に打ちのめされて気を失いそうになっていた時のことだった。僕にとって本屋は鬼門だった。本屋に入ると、目の前に広がる無限の世界に感動しすぎて呼吸困難に陥ってしまうのだ。この時もひざまずいて何とか倒れるのをこらえていると、シルクハットにちゃんちゃんこを着た、萩原流行似の主婦が声をかけてきた。
「あなたは私と同じ。この世界は刺激が強すぎるの。体が耐えられなくなった時はこれを飲むといいわ」
 主婦は僕に紙切れを一枚渡してきた。そこに先ほど説明した退屈の実の作り方が書いてあったわけというわけだ。
 この実を飲むと、世界のあらゆる刺激が何でもないものに感じるようになる。いや、むしろ何でもないどころか、物足りなくてつまらなくて心の温度が氷点下まで下がってしまうのだ。人々はこのような気分を退屈と呼ぶのに違いない。
 それ以来、外出する時はいつも退屈の実を飲むようになった。世界は面白いことが増える一方で、この実を飲まなくては平常な精神で歩くこともできないからだ。
 退屈の実を飲むようになってから、もうひとつ変わったことがある。なんと僕にも友達ができたのだ。以前は他の人と接すると、その人の話が面白すぎて自分をコントロールできなくなり、卒倒することもあったからだ。この退屈の実を飲んでいると、そんな簡単に人の話に驚かなくなるし、昔はできなかった“聞き流す”という作業もできるようになった。カフェや居酒屋で友達と長時間一緒にいても気を失うことはなくなった。
 ただ問題なのが、友達という存在と深い仲になればなるほど、少しずつ退屈の実の効き目が薄れていくことだった。人間というものは無限の面白さを秘めているものだし、いくら退屈の実が頑張っても、その刺激を完全に抑えることは難しいようだった。そして何よりも、僕自身の体が退屈の実に対して耐性ができているようで、飲み始めた頃の量だと、体が言うことを聞いてくれないのだ。
 こうして退屈の実の量は次第に増えていった。友達と長時間外出する時は、20粒くらい持っていかなくてはならなくなったし、ちょくちょく席を立ち、トイレで飲ませてもらった。ある日、泊りがけで海に行った時は、途中で退屈の実が切れてしまい、スーパーで買ってきた材料でもう一度作って補充しなおしたくらいだった。
 僕はやがて退屈の実中毒になっていった。心が刺激を感じそうな気配を感じると、すぐに退屈の実で抑えた。抑えていないと友達を失ってしまうような気がして怖かったからだ。
一日に飲む退屈の実の量は20粒から50粒になり、250粒から1200粒になり、やがては毎分毎秒に近いくらいの量を飲むようになっていた。それだけ飲むと、刺激が顔を出すことはほとんどなくなっていった。
 そして僕はあることに気付く。もしかしたらもう刺激を感じることはないのかもしれないと。ある日僕は朝から退屈の実を飲むことを放棄して、何もないシラフの状態で外出してみた。友達と待ち合わせした場所にも持っていかなかった。すると驚いたことに、もう刺激というものは感じなかった。僕は静かに喜んだ。これでいちいち退屈の実を飲むことなしに、退屈の中で、退屈にまみれながら生きることができる。友達に合わせなくても、心から「退屈だね」などと言いながら現実の悪口をべちゃべちゃと言うことができる、
 こうして僕はやっと、退屈の実を多量服用したお陰で、どんなことに対しても感動も絶望もしない、退屈しか感じることのない人間になることができた。昔はどうやって刺激や感動を得ていたのかも忘れてしまった。刺激? 感動? それってただ面倒くさいだけでしょうが。
 何も感じず、時間ばかりが過ぎていく、退屈ばかりの人生は、今ではなんて幸せなことなんだろうと思う。