審判とその家族

 ワールドカップの審判ができるという連絡をもらった夜、娘は飛び上がって喜んでいた。妻も涙を流し、家族3人でつつましく祝賀パーティと称してケーキを食べた。
 わたしのそれまでの人生は決して華やかなものではなかった。昼間は近所にある職業学校で木工を教えながら、夜にはタクシーの運転手をやっている。週末はたまに地元のサッカーリーグで審判をする。派手なジャッジは苦手だが、堅実な仕事を褒めてくれる人は多かった。わたしはサッカー経験にも乏しいため、ワールドカップなんて夢のまた夢かと思っていた。それが苦節30年、ようやく報われたというわけだ。日陰から日なたに出る機会がめぐってきたのだ。
 その翌日からわたしの生活は一変した。それは決して、いい意味ではなかった。ワールドカップ出場国の裏世界の人間からひっきりなしに電話や鳴り、手紙やメールも次々と届いた。そのほとんどの内容が、彼らの国に有利なようにジャッジしろという脅迫だった。地元のサッカーリーグでも金持ちの子息がいるチームを勝たせるように圧力がかかることはある。だが、わたしはどんな状況であろうとも、公正なジャッジを下すことを信条としていたため、これらの申し出を全て断り続けた。
 わたしが首を縦に振らないということがわかると、脅迫の内容は過激さを増していった。中には申し出を聞かないと、娘の命を奪うといったものもあった。わたしは怖ろしくなり、12歳上の審判界の大先輩に相談してみたところ、「ワールドカップはそんなものだ」という絶望的な答えが返ってきた。
 わたしは家族に相談した。家族は父親がスターになったと思っていたから、このような意外な相談を聞いて少なからずともショックを受けたいたようだ。娘は「わたしに何があってもいいから、ワールドカップの審判を引き受けて。正確なジャッジで世界を驚かせて!」と励ましてくれたが、妻は「家族のためにも断ってください」と言った。
 わたしは娘の言葉はうれしかったが、やはり家族の命を守るためにもワールドカップの審判の仕事は断ることにした。国際審判協会に電話をして断る旨を伝えると、あっさりと承諾してくれた。これにはわたしがショックを受けた。別に彼らとしては、わたしでなくてもよかったに違いない。世界には審判なんて星の数ほどいるのだ。
 どこで聞きつけたのか、わたしがワールドカップの審判を断ると、電話はまるきり鳴らなくなった。こうして我が家には再び平安が訪れた。
 わたしは仕事を再開し、普段の日常に戻った。しかし、何かが違っていた。このまま日陰で終わると思っていた人生に、陽が差す可能性があると思ったことで、わたしにも欲が出てくるようになったのだ。わたしは途端に今やっている仕事が無意味でバカらしく見えるようになり、以前にはなかった無断欠勤や細かいミスをするようになった。家に帰る時間も遅くなり、家族との会話も減っていった。娘の成績が上がっているのか、下がっているのかも知らなかった。
 それから3年後、次のワールドカップまであと1年と迫った時、わたしは家族に相談した。やはりワールドカップの夢を捨て切れないと。妻はどう返事をしようか迷っているように見えた。だが、この3年間、わたしが全く覇気がないのを見て、彼女なりの決心したようだった。
「もう一度、挑戦してみたら。娘とわたしはわたしの実家に避難するから、あなたは好きなようにやるといいわ」
 そして娘は父のそんな申し出を喜んでいるかのようだった。
「わたしは前から賛成よ。お父さんがワールドカップの舞台で笛を吹くのを見られるなら、少しぐらい危ない目にあってもいいもん」
「少しぐらいじゃないかもしれないぞ」
「いいのよ。少しでも、たくさんでも。わたしはお父さんにイキイキとしていてほしいの」
 この娘の言葉を聞いて、わたしはもう一度チャレンジすることにした。次のワールドカップに決定したら、またいろんな国からの電話が鳴るだろう。しかし、わたしはどれに対しても屈しない。そして家族にも絶対に手を出させない。