ささくれエムコさん

 エムコさんはいつもささくれを気にして、指を隠している。ササローはささくれを優しく撫でるのが上手いため、エムコさんの指先に触りたくて仕方がなかった。
 エムコさんとササローは同じ学校の同じクラス。なのに、話したことはない。話したことのない人間がいきなりささくれの話題を持ち出すのはまずいと、ササローは思っていた。だがしかし、そんなササローに願ってもないチャンスが舞い込んできたのだ。
 エムコさんが数学の授業で、ペンを落とした。ササローはペンを拾い、エムコさんに返した際に、ささくれのことに触れた。
「エムコさん、ささくれすごいけど大丈夫? 僕、撫でるの上手いから撫でてあげようか」
 ササローはそう言って、エムコさんの手をとり、ささくれを撫でてあげようとした。するとエムコさんは狂ったように飛び上がり、「わたしを飢えさすつもりか!」と怒鳴った。授業中だったから、クラス中の人間が2人に注目した。
「飢えさすつもりなんかないさ。僕はただ、ささくれを撫でたくて。僕はいつも家のインコの羽を撫でながらご飯を食べているから、撫でるのは上手いんだよ。賭けてもいい」
 ササローが説明すると、エムコさんは笑いながら説明した。
「おまえみたいに普通の人間には信じられないだろうが、わたしはささくれを食べて生きているのだ。つまり、ささくれはわたしたちの貴重な食糧だ。それを今、おまえは無断で盗もうとした。厳罰にかける」
 ササローは授業中にも関わらず、土下座をして謝った。この21世紀にささくれを食べて生きる人間がいたなんて。いまいち信じがたかったが、この世にはいろんな人がいる。それらの習慣を尊重してあげなくてはならない。ササローが謝ると、クラスのみんなもホッとしたようだった。数学の授業の朝川は、「ササロー、確かに今のはお前が悪い。ただ、そうやって自分の非を認めるのは男らしいことだ。みんなササローに拍手を!」
 クラス中のみんなが拍手をした。驚いたのは、エムコさんまでが拍手をしていたことだ。
 ただ、ササローがエムコさんと会ったのはこの日が最後だった。エムコさんは翌日、転校してしまい学校には来なかった。ササローはすぐに家まで行こうと思い、職員室に行って住所を聞こうとしたが、誰もわからないとのことだった。
 もうササローはエムコさんに会うことはおそらくないかもしれない。あれが現実の出来事だったのかはわからない。ただ、あの日の出来事があったおかげで、ササローは他人に対して価値観の強要をすることを一切やめた。酒を飲もうが、タバコを吸おうが、どんなにグロテスクな生き物を食べようが、ササローが注意できる筋合いはない。この話を今の妻である芳美に伝えたところ、「わたしはあなたが、酒やめろとかタバコやめろとか毎日ウニ食うなとか、うるさく言わないから結婚したのよ。ということは、わたしたちはエムコさんにずっと感謝しなくちゃならないということね」と言って笑った。