屁の味

 設楽修二がオフィスを後にしようとすると、右斜め前に座る園田が話しかけてきた。園田はいつもヘッドフォンで音楽を聴きながら仕事をしており、ほとんど周囲の誰とも話をしない男だ。設楽は少々不審に思った。
「もう帰るのか」
「そうですね」
 園田は設楽よりも後に会社に入ってきたにもかかわらず、年齢が2歳上というだけでこういう偉そうな口の聞き方をする男だった。設楽は園田のそういう点が苦手だった。
「頼みがあるんだが、聞いてくれないか」
 設楽はいきなりそんなことを言われて面食らった。園田の傲慢そうな態度には、人にものを頼むという行動は似つかわしくない。よほどのことがあったのだろうと思い、いやいやながらも話を聞いてみることにした。
「実はな」園田は机の上のある部分をじっと見つめながら言いにくそうにしていた。「俺の屁の味を味わってほしいんだ」
 設楽はそれを聞き、こんな愛想のない男でもギャグを言うのだと驚いた。こんな傲慢人間のように見える男でも案外さびしいプライベートを過ごしているのかもしれない。なんとかウィットに富んだジョークでも返さないといけないと思い、苦し紛れで思いつきのことを言った。
「じゃあ会議室にでも行って、2人だけの密室空間でじっくりと嗅がせてもらいますか」
 園田がそれを聞いて全然笑ってないのを見て、失敗だと思った。無視でもされるかと思ったが、なんと園田は「そうしよう」と言った。
 こうして設楽は成り行き上、会議室に行かねばならなくなり、園田と机を挟んで向かいあった。園田は神妙な顔のまま、「じゃあ、そろそろ味見してくれるか」と聞いた。ここまで来て、ようやく設楽は園田が冗談で言っているのではないと言うことがわかった。できることなら「やっぱりやめます」と言って帰りたいが、園田の真剣な表情にはそう言わせないような迫力がある。園田はあきらめて、質問することにした。
「ひとつ聞かせてください。なぜ屁の味を嗅いでほしいんですか? それは僕じゃなくちゃダメなんですか?」
「別におまえじゃなくてもいいんだよ。ただ、年下のほうが頼みやすいかなと思って。屁の味を嗅いでほしいのはさ。俺、転職するんだよ。で、今行きたい会社が少し変わった会社でさ。面接で屁の味を見るって言うんだ。俺も最初はつまらないギャグでも言ってるんじゃないかと思ったけどさ。その会社の言うことももっともだと思う。彼らは社員の健康に非常にプライオリティを置いていて、屁の味でその生活態度や食生活がわかると言うんだよ。俺はもともとコンビニ飯しか食べない人間だから、それを読んだときに絶対に落ちるなと思って、生活改善をしたんだ。3ヶ月前から毎日ご飯を炊いて、納豆やキムチを食べた。もちろん酒やタバコも断ったし、ジャンクフードや炭酸飲料は一切口にしていない。ただな、自分で自分の屁の味はわからないんだよ。なんとなくよくなったような気はするんだけどさ、なんとなくじゃダメなんだ。そこでおまえなら適任かと思ったわけなんだよ。すまないな」
 設楽は園田の熱意に負けた。もうここまで来てどうやって引き下がれと言うのだ?
「わかりました。僕にできることであればやります。ただ、僕は屁の味を見分けるのは決してプロではありません。あくまで素人としての主観的なものになってしまいますが、それでもいいのですか?」
「いいよ。それで十分だ。俺も他人から認められるってことが自信につながるんだ」
「わかりました」
「ありがとう。準備するからちょっと待っててな」そう言って園田はストレッチのように腰を回した。「よし行くぞ」
 こうして数十秒の沈黙があり、ピューという音が鳴った。鼻が曲がるほどの臭さだったが、いい加減な気持ちで嗅いだらいけないかと思い、舌で転がしてゆっくりと味わった。。
「どんな味がした」
 そう聞かれ、設楽はなんと答えていいものか迷ったが、正直に答えることにした。
「むちゃくちゃ臭かったです。味で言うなら、腐ったゴーヤでしょうか。もし僕が面接官だったら、採用しないかもしれません」
 園田は一瞬落ち込んだ様子を見せた。だが、それから顔は少しずつ笑顔へと変わっていった。
「正直に言ってくれてサンキューな。腐ったゴーヤか、うまいこと言うな。おまえ。俺は自分で自分の生活は完全に変えたと思ってたのだけど、まだまだ詰めが甘かったのかもしれない。もう少し生活改善を徹底してから面接にのぞむことにするよ」

 それから園田が実際に会社を辞めるまで、3ヵ月がかかった。2人きりになると屁の味を味あわせようとしてくるのには参ったが、だんだん味がいい方向に変わってきているのがわかったため、初めて嗅いだような不快感はもうなかった。
「これならもう受かると思いますよ」
 設楽がそう指摘した翌週に園田は面接を受け、そして受かった。それ以来、園田は会社を辞めた後も、設楽のことを「屁の先生」と言って慕い、朝起きたての濃厚な屁を詰めたタッパーを時たま送ってくる。設楽は男の屁を味わうのは決して好きではないが、先生と呼ばれるのは嫌な気はしないので、これが送られるたびにしっかりチェックし、時にはアドバイスを送ることを忘れなかった。