フジロックには行かせない

「お父さん、私、明日からフジロックに行ってくる」
 猛暑が続いたその日の晩、久次郎の15歳になる娘のモネがおかしなことを言い出した。
 久次郎はそれを聞いて驚き、ショックで涙をボロボロと流した。久次郎の涙を見て、モネは驚いた。
 お父さんはなぜ泣いているのだろう。久次郎はその涙の理由をこう説明した。
「あんな場所に行ってはいけない。お父さんも若い頃に友達に連れられて、恥ずかしながら一度だけ行ったことがあった。だがな、あそこにいる人間はどれも世間となじむことができない社会不適合者ばかりなのだ。みんな同じような格好をして、みんな同じような音楽を聴いて、ああ! あの凄惨な光景を思い出すだけでお父さんは卒倒しそうになるよ。お父さんはあんな場所に行って、おまえに人生を踏み外してほしくないんだ。まだおまえは若いからロックというものが何なのかよく知らないのだろう。テレビで聴いたことがあるバンドが出るから。そんな軽い動機で行くのだろう。ロックと言うものはな、人間の人生を簡単に粉々に粉砕してしまう麻薬なのだよ。お父さんはロックに人生を狂わされた者を何人も知っている。たとえば、お父さんをフジロックに連れて行ってくれた友達はな、40歳になってもまだバンドをやっているんだ。おお、神よ! 40歳になってバンドだなんて、これほど親不孝なものはないだろう? お父さんはその時たまたま付き合いでフジロックに行ってしまったが、ロックに惑わされることなく、無事に今の市役所に就職することができた。それからは楽しい人生だよ。おまえだって、お父さんが楽しく毎日を生きているのを見ているだろう。ほら、あの同僚の前田さんとかだって、笑えるだろう? ゲッパ、ゲッパって、あれが前田さんの宴会芸の十八番なんだ。ああいう人が身近にいるんだから、お父さんにはロックなんか必要ないんだよ。ところで、おまえは何を観にフジロックに行くというのだ? 教えてくれないだろうか」
ヒカシューよ」
ヒカシュー? なんだ、それは?」
「バンドの名前よ。クラスのアキちゃんが教えてくれて夢中になってしまったの」
「お父さんは知らないぞ、そんなバンド。そんなものより楽しいものはたくさんあるだろう。ほら、テレビを観なさい。ここには旬のお笑い芸人たちがいっぱい出てるだろう? 明日もフジロックなんか行かないで、彼らの番組を観てればいいじゃないか。彼らの最新ギャグを知らないと、クラスで仲間外れにされてしまうぞ。おまえにはしっかりと、そういう世の中の流行にはついていってほしいんだよ。フジロックに行ったところで、クラスの変わり者と思われるのがオチだ。お父さんはおまえに、みんなと足並みを揃えて、みんなと同じ人生を歩んで行ってほしいだけなんだ。なあ頼むよ。お父さんを失望させないでくれ。フジロックはおまえみたいなまともな人間が行く場所じゃないんだ。考え直してくれ」
 久次郎の目からは涙がボロボロと溢れてきた。モネは父親がそこまでして説得しようとしているのを見て自分も泣いてしまった。
「お父さん、わかった。私、フジロック行かない! 家でお笑い番組を見てることにするね」
「よく言った。それでこそモネだ。うちの娘だ。ありがとう、ありがとう」
 2人は抱き合い、何時間も泣きあった。その後、モネは一度もフジロックに行きたいなどと言って親を困らせることなくスクスクと育ち、無事に食品会社に就職。社内で出会った一橋大卒の男と結婚し、幸せに暮らした。それからモネは何度か父と涙を流した晩のことを思い出すが、あの時フジロックに行かなくてよかったと本当に思っている。あの時父の反対を押し切って行ってたら、こんなにまともな人生を送れなかったと確信している。