フジロックには行かせない3

 ハルヨシがボケーとネットを徘徊していると、気になる記事を見つけた。そのタイトルはこうあった。
「これが本当のロックだ! フジロックに行く行かないで壮絶夫婦喧嘩」
 ハルヨシは嫌な予感がして記事を見た。すると、そこには動画が貼り付けてあり、案の定、自分と妻との夫婦喧嘩が何者かに撮られた映像が流れていた。


 ハルヨシは結婚して6年になる。年齢は30歳で、妻のヨシエは27歳。仕事は某家電会社に勤めているが、最近の不況でボーナスもカットされ、薄給の中でなんとか生きのびている有様だ。
 そんなハルヨシの唯一の楽しみは音楽を聴くことだった。だが、生活するのが精一杯だったハルヨシはCDを買う余裕すらなかった。どのくらい生活が精一杯かと言うと、夫婦で月に1回も外食できないほど。5月のヨシエの誕生日には、コンビニの板チョコしか買ってやれずに、恥ずかしい思いをしたものだった。
 ヨシエはそれでも文句を言わずによくやってくれていた。ハルヨシが本当に必死に節約生活に協力してくれるのがわかっていたからだ。ヨシエは自分がパートに出ようかと提案したが、ハルヨシの母は優秀な専業主婦だったため、自分の妻に外で働かせることなどできなかったので、これを拒否し、なんとか給料が今よりも上がるように努力していくことを誓った。
 このように夫婦仲は順調に思われていた。しかし、ある時ハルヨシが音楽雑誌を立ち読みしている時に、ある事実を知って以来、2人の間には不穏な空気が流れるようになった。それはハルヨシが今年のフジロックトム・ヨークが来ることを知ってしまったことだった。
 ハルヨシは自分が無人島に行くならレディオヘッドトム・ヨークのCDを持って行くに違いないと確信しているほどのファンで、これまでの来日公演も全て参戦していた。前回レディオヘッドが来日した頃にはまだボーナスが出ていたから、後ろめたさを感じることなく高いチケットを買って行けたわけだ。しかし、今回はその時とは状況が違う。ハルヨシはヨシエに内緒でへそくりを貯め、7月30日の土曜日には友達とバーベキューをしに行くから留守にすると嘘をついた。会社からの給料はヨシエに知られているので、家中のCDやDVD、洋服などをオークションで売り払い、小金を貯めるように努力した。
 だが、ハルヨシはもともと嘘のうまいほうではなく、何かを隠していることはすぐにヨシエにバレた。ヨシエはハルヨシが浮気をしているのではないかと思い込み、ハルヨシの留守中や入浴中に洋服やカバンを漁り、その証拠を突き止めた。ハルヨシは7月30日は多摩川でバーベキューをしていると行っていたのに、インターネットの履歴を見ると苗場への行き方や新幹線の値段などを検索していたのだ。ヨシエは知らないふりをして、当日苗場まで乗り込んで浮気の現場を押さえることを決心した。
 そんなヨシエの思惑を知らないハルヨシは、自分の嘘が成功していると思い込み、越後湯沢までの新幹線に乗った。同じ車両に妻が乗っているとも知らずに。
 ハルヨシは行きの電車でトム・ヨークのソロアルバムを何度も聴いた。ハルヨシはフジロックへ行くのが初めてだった。それはもちろんレディオヘッドが来たことがなかったからだ。ハルヨシはもしかしたら興奮のあまり、自分はどうにかなってしまうのではないかと思うほど、体中の血という血が沸騰していた。
 越後湯沢に着き、シャトルバスに乗る。シャトルバスは1時間半待ちだった。こんなにたくさんの人が来ていると思わなかったハルヨシは面食らったが、トム・ヨークが出演する夕方までに着けばいいと思い、焦るのをやめた。そして、その数人後ろにはヨシエがいた。ハルヨシはもちろんそれに気付かないほど興奮していた。
 バスが会場に着き、ハルヨシはチケット売り場へと向かった。この当日まで状況がどうなるかわからなかったため、前売り券を買っておらず、当日券を買うつもりだった。目の前にチケット売り場が近づいてくる。その時だった。
「あなた、何やってるんですか」
 妻の声だった。ハルヨシが振り向くと、そこには鬼の形相をしたヨシエが立っていた。
「浮気してるかと思って苦労して苗場まで来たかと思ったら、これですか! 浮気よりももっとひどい! 私がどんなに節約を頑張っているのか、あなたはわかってないんでしょう? わかっていたら、こんなお遊びに金を使ってられないですよね? 違いますか? 第一、その今あなたが買おうとしているチケットっていくらなんです? 当日券で1万8千円? あー、怖ろしい。ふざけるのもいいかげんにしてください! ここまでの電車賃と合わせて、3万円も吹っ飛ぶじゃないですか。あなたは自分の給料がいくらかわかってここに来てるんですか? みなさん、聞いてください。この人は私の誕生日にコンビニの板チョコしか買ってくれなかったのに、1万8千円ものチケットを買おうとしているんですよ」
 ヨシエの言葉にギャラリーからは失笑が漏れた。「いいぞいいぞー」「ロックだなあ」という歓声も聞こえた。ハルヨシは目の前にあった幸せが不意に暗黒の中に沈んでいくのを見てただただ呆然と立ち尽くしていた。
「ちょっと待ってくれ。僕はただトム・ヨークを観たかっただけなんだ」
「はい? トムだかヨークだか何だか知りませんが、誰を観たかろうが関係ありません。今から私の実家とあなたの実家に電話をかけます。そして、この亭主のひどい仕打ちを明らかにさせていただきます」
 ヨシエが携帯電話を取り出した。気付くとハルヨシはヨシエのことを突き飛ばしていた。ハルヨシは妻に暴力などふるったことはない。ただ、咄嗟に出た行動だった。ヨシエは横向きに倒れ、膝をすりむいていた。その目からは涙が流れ、ギャラリーの女性からは「ひどいー」と言う声も飛んだ。
 ハルヨシはヨシエに駆け寄りたいのもやまやまだったが、このチャンスを逃してはならないと思い、チケット売り場へと走った。チケット買った後にヨシエのもとに駆け寄ればいい。そしてチケットはもう買ってしまったから仕方がないと説得して、入場するつもりだった。しかし、チケット売り場の女性が言った一言がその計画を木っ端微塵に粉砕した。
「当日券は売り切れました」
 ハルヨシは文字通り膝から崩れ落ちた。こんなことがあっていいものだろうか。その近くにダフ屋の姿が見えたので、一応チケットがあるか聞いてみたが、その答えはNOだった。ハルヨシはここからの記憶はほとんどない。ただ何となく覚えているのが、ギャラリーの女性たちに介抱されている妻のもとへ行き、謝罪して抱き起こしたこと。その際に女性子たちからの「最低!」という罵声を浴びたことだけだった。
 ハルヨシが家に帰ると、ヨシエは案外落ち着いていた。おそらく当日券を買わずに被害が少なかったことが幸いしたのかもしれない。さすがに自分のしたことはやりすぎだったと反省もしたのかもしれない。後で聞いたところによると、帰りは2人で新幹線代を浮かすために鈍行で帰ってきたとのことだった。


 そして今、目の前でインターネットの中で流れているのは、その時の騒動を収めた動画だった。ハルヨシはあまりの恥ずかしさにどんよりと落ち込んだが、その記事の下のほうに信じられない記述を見つけた。
「この動画の中での旦那さんの台詞“僕はただトム・ヨークを観たかっただけなんだ”を関係者が訳し、トム・ヨーク本人に見せたところ、本人は感激。自分の事務所に連絡してくれれば、夫婦ともどもヨーロッパでのライブに招待すると言っています。もちろん渡航費からホテル代から全てトム自身が払うそうです。なので、もしこの記事を本人が見たらすぐにスマッシュまで連絡するようにしてください」
 こうしてハルヨシと妻のヨシエはトムの厚意により、アトムズ・フォー・ピースのロンドン公演を観ることができた。トムは楽屋に2人を招き、「自分のことが原因で喧嘩させて申し訳ない。ただ、夫婦生活は長いのだから、あまり喧嘩はせずに力を合わせて頑張って行ってほしい」と言った。ハルヨシとヨシエは申し訳なさそうに「YES」とつぶやいた。