MUNAMI警報

 無波警報が発されたのは午前7時のことだった。
 今回の無波には誰もが楽観視していた。前回の政府が発した警報ではさんざん危険だ危険だとわめいていたくせに、その高さはおよそ1mと取るに足らないものだったからだ。
 なので私は今回の警報が出ても特にジタバタすることなく、ベッドで寝ていた。午前7時と言ったら私にとっては睡眠のゴールデンタイムだし、私の住む12階まで波が来るはずがない。
 しかし、そう思ったのが全ての間違いだった。午前7時、政府の警報どおりに無波は東京全土を覆い尽くした。雷鳴のような音を聞いて私が目を覚ますと、マンションの10階くらいまでは全て無波で埋まっていた。特に被害が大きかったのが引き波のときで、第一波をやりすごした人間もみんなこの引き波でやられたという。
 海外はこの日本の無波現象を大々的に報じた。無波と名付けたのは当時の環境大臣だったはずだが、この新語であるMUNAMIはすぐに英語となって世界を駆け巡った。無波の無はもちろん虚無の“無”だ。無波は人々の虚無感が限界に達した時、そのむなしさが束になって津波となる。とても科学では解明できない現象だ。海外の国々は、日本の国民がそこまでむなしさを抱えながら生きていることに驚いた。そして、無波による被害が甚大なものになり、近隣諸国まで被害が飛び火するようになると、こぞって批判をするようになった。国連は日本に、むなしさを解消するための手段や人員を派遣した。たとえばインドの子供たちに伝わるゲームだとか、メキシコの老人の間で流行っている言葉遊びだとか、そういったものだ。各国の人間は日本人は働きすぎで、遊びが足りないと思っていたのだ。しかし、事態はそんなに単純なものではなかった。日本人は海外から輸入された遊びに熱中しようと“努力”した。しかし、根本にあった人生のむなしさというものは解消できず、無波は以前よりもその激しさを増した。
 無波はカナブンのような緑色をしており、これに当たるとほとんどの人間が生きる気力をなくして人形のようになり、やがて命を落としてしまう。緑色の無波にあたった建物はすぐにその輝きを失う。今回の無波により、東京は全て緑色の無波で覆われたが、これは非常に醜いものだった。衛星写真で見ると、苔が腐ったような色をしていた。
 私がテレビをつけると、ドイツの環境科学者リヒテン・シュレッガーは日本はおそらくこのまま無波で滅びるだろうと分析していた。日本という国において、人々が抱える虚無感の大きさは他国の人間の想像をはるかに超えるものだ。おそらくこのまま無波は日本を覆いつくして、やがて国は滅びる。その反動で韓国や中国、はたまたロシアやアメリカまでもが関連被害を受けるであろうが、それはやがてすぐに止むだろう。無波は日本が抱える固有の問題なのだ。
 私は12階の窓から眼前に広がる緑色の無波を覗いた。その高さはグングンと高さを増し、このまま12階まで漬かるのは時間の問題だろう。このドイツの科学者の言っていることは正しいに違いない。日本は本日、自分たちが抱える虚無感に呑み込まれてなくなるのだ。
 おそらく12階まで無波が到達するまで20分。私はその20分間をどう過ごそうかと考えた。どうせだったら、虚無感を感じなかったような楽しかった出来事を思い出そう。しかし、私が自分の過去のどの出来事を思い出してもその虚無感は拭えず、楽しい気分にはなれなかった。誰かに電話をして話を聞いてもらおうと思ったが、こういう時にかける相手もいなかった。
 私はここまで仕事で成功し、麻布の高級マンションの12階を購入することができた。初めてこの家に引っ越してきて夜景を眺めた時は、自分は全てを手に入れたのだと思い、興奮したものだった。しかし今自分の人生を振り返ると、その思い出は虚無感なしに思い出せるものはなかった。私はその事実に愕然し、生きる気力をなくした。いや、これまでも生きる気力などはなく、虚無感と戦うだけで精一杯だったのだ。こうして考えると、少し気持ちが楽になった。虚無感とさよならできる。少しでも早くこの苦しさを捨てたい私は、窓の下に広がる無波の中に飛び込んだ。無波はまるでキュウリのような味がし、次第に私は意識を失っていった。