会社に行きたい!

 家にいると妻や息子からいじめられ、かと思うと友達がいないから外にも出ていく用事がない。生きることは本当に苦しいものだ。そんな風に感じたとき、私は会社に行きたくて仕方がなくなる。会社はいい。会社では部下から篠原さん篠原さんと言って慕われるし、女性社員から話しかけてくることもたまにある。自分が飲みたいときは「一杯やろうか」と言うジェスチャーをすると、少なくとも2、3人が集まってくれる。
 だから月曜日の朝は心底ホッとして天国に行くような気持ちになるし、逆に金曜日の夜は憂鬱で仕方がない。この週末を生きていけるだろうかと考えるからだ。ああ、会社に行きたい。会社に行きたくて仕方がない。
 毎朝、会社に着くと、私はまず「会社だ! 会社に来たぞ!」と心の中で叫び、思い切り深呼吸する。顔には満面の笑みが浮かび、部下からは「篠原さん、今日もご機嫌ですね」と言われる。そうなのだ。会社に来ているから機嫌がいいのは当たり前なのだ。
 よく最近の部下の中には夏休みがうれしいだとか、会社に来たくないと言う者がいるが、私にとっては信じられない。会社以外に楽しい場所がこの地球上にあるのか? ないだろう。
 息子にはもっぱら無視されてしまっている。ただ、父親として教育できるときには必ず、「会社に入るまでの辛抱だ。会社が全て解決してくれるから安心して大人になれ」と言う。息子はたまに人間関係や勉強、部活動などで悩むことが多いようだ。だが、それもほんの束の間の悩みにすぎない。会社に入ればそんな悩みも全てなくなるからだ。息子は現在は私の言葉に反発を覚えているようだが、大人になったらわかる時が来るだろう。
 それにしても最近は、私の会社依存症はかなり重いものになっているようだ。家にいると発作が飛び出し、手が震え、頭と胃が激痛に襲われる。最初は何が起こったのかと思ったが、夜中にタクシーを飛ばして会社に行くとけろりと治った。妻は皮肉めいた口調で「だったら家なんて帰ってこなくていいのに」と言ったが、これまでは近所の手前そうはいかなった。あそこの主人は最近帰ってないなんて噂が立ったら家庭内に不和があると思われるだろうし、そのせいで息子がいじめられるかもしれない。夕方に私が大きな声で「ただいま」と言うことが、どんなに近所との調和を生んでいるのかわからないのだろうか。
 しかし、最近は発作が出るたびに、あまりに毎日のようにタクシーを飛ばして会社に行くため、タクシー代もバカにならなくなってきた。いくら私が係長とは言え、このご時勢だ。給料は上がる一方と言うわけにはいかないので、こういう出費はなるべくなら削らなくてはならない。私は近所の調和を壊すことは承知の上で、こう提案した。
「やっぱり会社が私の居場所のようだ。しばらく会社に寝泊まりしてもいいかな」
 妻と息子は飛び上がって喜んだ。2人は私が目の前にいるというのに、ガッツポーズをし、ハイタッチをし、シュプレヒコールを歌い始める。私はその光景を見て正直複雑な思いだったが、自分もそれくらい嬉しかったのは事実だ。これで発作が起こらなくてすむのだ。
 会社に相談すると、仮眠室に寝泊まりしていいとのことだったので、私は遠慮なく仮眠室で生活をした。文字通り四六時中、私は会社での時間を過ごした。会社に漂う匂い、壁の手触り、社員が帰った後のひんやりとした空気。私はもうこのどれかひとつが欠けてしまっても生きていけないのだろうと思う。実際、会社にはキッチンがなかったため、コンビニの弁当を買ってくるくらいしかなく、栄養は全然とれていなかったが、私は家に帰っている頃よりも元気になり、よく若返ったというように言われるようになった。
 会社が順調に行って、私もリストラなどされずに定年まで勤められるとするなら、60歳まではあと15年もある。もちろんこの先も、ずっと会社から離れて暮らすつもりはないので、自分がどこまで若返ることができるのか楽しみで仕方がない。