鼻の穴旅行記

 会社を辞めて以来、ほとんど誰にも会わなくなった。もともと友達が多いほうでもなく、家にいるのが好きなため、特に用事がない限り外には出ない。部屋にはテレビもパソコンも本もない。ただ自炊して食べるだけの毎日。
 あまりに退屈だったので、鼻の穴の中へ旅行してみることにしよう。昔から鼻の穴に興味があった。他人のは全く興味がない。自分のだけだ。鼻の穴から出る物体は何でも何時間でも眺めていられた。鼻から出る固形物と液体を交互に眺めたまま朝になったこともあった。親はそんな息子を見て、どこか変だとは思っていたようだ。自分でもそう思う。
 しかし、人間が好奇心を持つのは義務のようなものだ。大人になっても鼻の穴への興味は尽きることはない。
 そこでこうしてまとまった時間があるうちに、鼻の穴の中へ旅行しておこうと思う。自分が入るわけではない。それはさすがに物理的に無理だ。歯医者さんが使うような小さな鏡を使って、まるで鼻の穴を旅行しているような気分に浸るのだ。
 鏡から見える映像はとても小さいため、双眼鏡を使うことにする。つまり、小さな鏡を大きな鏡に映し鏡をして、その映像を双眼鏡で見るのだ。なんて面倒くさい作業だと思うかもしれないが、自分にとっては何の面倒もない。
 まずは鼻の穴の淵から、中に足を踏み入れる。ここには割と太めで長い毛が密集しており、いきなりの難関だ。人間の目では見えないが、この毛の中には微生物がたくさん生息しており、彼らが外から入ってくるホコリを守ってくれている。ホコリが肺に直接入ると肺がダメージを受け、それが自分の身体を弱らせる。それを防ぐために、微生物たちが粘っこい液体を体中から出し、ホコリを食い止める。粘液と一緒くたになったホコリは固形物となり、毛のまわりにこびりつく。その固形物を見ているだけで自分がここ数日どのような場所でどのような時間を過ごしてきたかがわかる。
 最近はあまり外に出ていないので、固形物の色は薄い。外を歩くとすぐに真っ黒になるため、いったい自分は一日にどれだけの排気ガスを吸っているのだろうかと不安になる。
 毛のまわりに住み着く微生物たちに挨拶をする。きっと彼らは人間の言葉がわからないに違いないが、同じ宿主を持つもの同士、気持ちはわかりあえているはずだと思う。
 そして毛の密集地帯を越えると、やわらかいピンク色の肉のじゅうたんが目の前に広がった。そこはあたかも国境のようだ。まだこちらの国の面影を残しながらも、明らかに違う国の匂いがする。ここを越えると、そこは内臓と変わらないようなデリケートな空間が広がり、普段体外で暮らしている自分にとっては見慣れていないため少し戸惑う。このピンク色のじゅうたんに座り、体の中から脈打つ鼓動に耳を傾ける。自分は生きていると感じることができる。
 ここまで来るのに、12時間が経過した。本当ならもっとこの奥まで行きたいのだが、鏡がそこまで高性能ではないから、ここで引き返すことにしよう。鼻の淵から奥まで12時間。これは速いだろうか、遅いだろうか。人によっては20分くらいで辿りつくことができるかもしれない。だがしかし、自分の場合はしっかりと旅を楽しみたいと思うので、次に旅行するときもこれくらいの時間はかけて臨みたいと思う。