あなたの住む街が嫌だから

 和也がお気に入りのカレー屋でニンジンカレーを食べていると、目の前に座った春江が唐突に言った。
「別れたいの」
 和也はスプーンをテーブルに落とし、春江の顔をじっと見つめた。春江はいつも注文するピーマンカレーを食べていたが、ほとんど手をつけていないことに気付いた。
「何を突然。カレー食べている時に言うことかよ。だいたい俺の何が不満なんだ? こうやって毎週水曜日にはおまえの好きなピーマンカレーを奢ってやっているのに」
「違うの。ピーマンカレーには満足してるわ。でもね、私、あなたの住む街が嫌いで嫌いで仕方ないの」
「この街のどこが嫌なんだい。マクドナルドもスターバックスもあるし、和民もさくら水産もある。もちろんピーマンカレーだってある。何の不満があるって言うんだ?」
「だから言ったでしょ。ピーマンカレーにはとても満足してるわ。でもこれくらいなら自分でも作れると思うし。ただ、この街の醸しだす雰囲気がどうしても好きになれないの」
「じゃあ、俺がこの街を引っ越したらまた付き合ってくれるか?」
「いいえ。それは無理ね。たとえあなたが別の街に引っ越したからと言って、あなたがこの街に住んでいた事実は変わらないから」
「じゃあ、どうしろって言うんだい!」和也は最後にとっておいた大きなニンジンにフォークを突き刺し、それをモグモグと頬張りながら怒鳴った。店内には2人以外客がいなかったが、奥の厨房から店主が耳をそばだてているような気配が伝わってきた。
「あなたがどうしようと無理なの。この街が変わらない限り」
「じゃあ、俺がこの街を変えれば、また付き合ってくれるのかい?」
 和也のその言葉に、春江がはっとした表情をした。
「それは思いつかなかったけど……。そんなこと、できるわけないと思うわ。たかが大学生のあなたに」
「そんなことやってみないとわからないだろ。見ていてくれ。期限は来年の今日。1年間猶予をくれれば、俺はこの街を変えてみせる」


 こうして和也は翌日大学に退学届を提出し、市役所でのアルバイトを始めた。あくまでもアルバイトという肩書きではあったが、多彩なアイデアとほとばしる情熱が認められ、街開発プロジェクトへの参加が認められた。するとここから和也の獅子奮迅の活躍が始まった。和也は居酒屋やファミレスのチェーン店を一掃し、地元密着型の飲食店を増やした。気の抜けたネーミングの商店街を今風のものに変え、くすんだ灰色の床石をブルーとイエーが交錯するカラフルなものに変えた。駅前で行われる夜の世界へのキャッチ活動を禁止した。グラウンドや公園を増やし、子供たちの歓声が常に街中にこだまするように心がけた。
 こうして1年後の2011年8月26日がやってきた。和也は春江に電話をかけた。昨年のあの日以来、それまで2人は一度も会っていなかった。
「久しぶりだな。今日の約束を覚えているかい」
「そうね」
 2人は思い出のカレー屋で待ち合わせ、1年ぶりにピーマンカレーとニンジンカレーを注文した。
「ここの味は変わってないだろう」
「そうね」
「それじゃ行こうか」
 カレーを綺麗に食べ終わると、和也の後を春江がついていき、街を案内して回った。和也はまるで自分のi-Podの曲目リストを見られるほどに緊張していた。
「あら、ここにこんな定食屋が」
「作ったんだよ」
「あら、こんなところに公園が」
「それも作ったんだ」
「商店街の名前も変わったのね」
「俺が考えたんだ」
 春江は一通り街を散策した後、川沿いを歩きながら、ぼそっと言った。
「結果発表します」
「おい、緊張するな。今ここで発表かよ」
「あなたの努力は認めます。ただ、私はやっぱりこの街を好きになれないの。ごめんなさい」
 和也はあまりのショックで、それ以上一歩も前に歩けなかった。春江はそのまま、どこまでもどこまでも川に沿って遠くまで歩いて行ってしまった。川沿いで歌う40代くらいのフォークシンガーの歌声が風に乗って和也の耳に入ってきた。

この街に住んでしまったばかりに、2人の愛は終わってしまったの
ねえ どうして  ううう ううう
この街に住んでしまったの この街の何が悪いの
ねえ どうして  ううう あああ