煙ブロークン論争

 これは事件に関係したほんの一握りの当事者しか知らないが、忘れ去るには少しばかり惜しい事件である。関係者たちが「煙ブロークン論争」と呼んだ、その事件のあらましをここに記しておきたいと思う。
 今年5月のしましま新聞に、記者によるあるコラムが掲載された。その内容とは、記者の知人で帰国子女だった女性について記したもので、英語がペラペラだと思っていたらそうでもなかったと落胆した気持ちを面白おかしく書いていた。問題となったのは、その表現方法で、記者は女性のことを以下のように表現した。
「彼女の口から流暢な英語が飛び出てくるかと思ったら、煙ブロークンだった。私は驚き、人は見かけによらないものだと思った」
 この文章を読んでいた、東京八王子市に住む吉田善治はすぐさま電話の受話器を手に取った。吉田はこういった新聞上の不適当な表現を見つけることを生きがいにしており、自らのことを“言語警察”と呼んでいた。吉田は少なからずとも、日本語が無秩序な状態にならないことに一役買っていると思っていた。
「もしもし、しましま新聞の編集局ですか。今朝のコラム『うーんと思った瞬間』を書いた森野修平さんを出してください」
「私ですが、何か?」
「ああ、あなたでしたか。思ったよりも声が大人っぽいようで。てっきりこんな意味不明の表現をするものだから、大学卒業したてのひよっ子記者かと思いました」
「だから、意味不明の表現とは何のことでしょうか」
「“煙”ですよ、“煙”。あなた今朝のコラムに煙ブロークンという意味のわからない表現を使ったでしょう。あんな崩れた日本語を読んだら、小学生が混乱するじゃないですか。あなたの言語感覚は狂っているとしか思えません。すぐに明日の朝刊に謝罪文を載せていただきたい」
「何を言っているんですか。僕が“煙”という表現を使ったのには、ちゃんと意図があるんです」
「聞かせてもらおうか」
「これまで日本語では、“超”とか“鬼”とか、強調するための言葉を多く生み出してきました。しかし、最近ではこれに次ぐインパクトのある強調語がありません。そこで私は、新聞記者として新たな表現方法として“煙”を提案したく思ったのです。だから、煙ブロークンというのは、鬼ブロークンや超プロークンといった表現方法の一歩先を行く現代風の表現なのですよ」
「君の意図していることはわかったが、“煙”だと、その役割を担うことにならないのではないか」
「では、他の強調語はありますか?」
「“超”とか“鬼”とかを使い続ければいいだろうが」
「だから“超”とか“鬼”とかはもう古いと言っているでしょうが。あなたのような人がいると、言葉というものは進歩していきません。いいですか。言葉は常に変化していくものです。私はあえてそこで、“煙”という文字を使いたかった。煙はモクモクと広がります。そしてその先はどこまで行くか見えないほどです。どうです? この煙の特徴が、何よりも強調にふさわしいものではないでしょうか」
「君、それは詭弁だよ。若者特有の、現実から逃避した屁理屈でしかない。それよりもデスクはこの表現について許したのかね」
「あのう、私どもはしましま新聞ですよ」
「まあな、確かにしましま新聞は新しい表現を積極的に取り入れることで有名だ」
「うちのデスクは即OKしました。おそらく今後も“煙”という表現は我が社の新聞で使われることでしょう」
「いや、そうは言ってもだな。私は断じて許さん。何なら、しましま新聞の不買運動を起こしたっていいんだぞ」
「いいですよ。やってもらおうじゃないですか。煙ブロークンに対する抗議としてね。運動が浸透する頃には“煙”という表現方法は普通の日本語として使われるようになっていますよ」
「何を、生意気なことを言いおって」
 この台詞を吐いた時、吉田は持病の腎臓が痛んだため、電話を切り上げた。全く、不届き者な奴め。吉田はすぐに不買運動を起こそうと思ったが、その前に病院に行かなくてはならなかった。そして数日経っても腎臓の痛みが引かなかったために、不買運動を起こすのはあきらめた。
 しかし、老人の言っていることは正しかった。煙という表現は全く一般化しないままやがて廃れていった。煙ブロークン論争は、しがない一市民による言語警察の勝利に終わったのだ。森野は悔しい思いを味わったが、この敗戦についてはあまり語りたがらなかった。そして、この論争について覚えているのは、苦情を出した吉田と記者の森野、それと森野の隣で当日の2人の電話の内容を興味深く聞いていたアルバイトの女性だけだった。