いつかヘコヘコする日

 鴨下伸二が小学校の頃に言われて以来、生涯忘れられなかった言葉がある。そいつの名前は串田玄という、当時は気にも留めないような奴だったのだが、それから30年以上経った今でも串田が涙で目を腫らして鴨下に捨てゼリフを吐く姿が昨日のことのように思い出せる。
 当時、鴨下は運動神経がよくて女子生徒にモテるバリバリのイジメっ子だった。串田は鴨下にとってはイジメの対象で、机の中に濡れた砂を詰めたり、靴の中にアロンアルファを流し込んだりしていた。串田は鴨下がイジメる奴らの中でもよく反抗的な目つきをとる男で、それが鴨下の神経をいつも逆撫でさせたものだった。鴨下はある日、串田があまりに反抗的な顔をするので、顔面を鼻血が出るまで殴ってしまったことがあった。その際に串田が吐いた言葉が「今に見てろよ。おまえだって、いつか人にヘコヘコする日が来るんだからな」だった。
 その時、鴨下はこのバカは何を言っているんだと思い、取り合わなかった。当時の鴨下は無敵だったし、周りの人間が鴨下にヘコヘコする立場だったからだ。この日々は永遠に続くものだと信じて疑わなかった。しかし、串田は勉強ができるだけに賢く、他の生徒よりもその先の人生を見据えていたのだろう。鴨下は40歳半ばになった今、感心した思いであの同級生の反抗的な顔をよく思い出すのだ。
 鴨下は小学校から大学にかけて、何も変わらないイジメっ子人生を送り続けた。串田のような憶病な生徒は、鴨下にとっては格好の餌だった。鴨下はそういう生徒を見ると、自分のアンテナがビビビと反応するのを感じる。まるで磁石が吸い寄せられていくかのように、そいつの居場所がわかるのだ。奴らはきっと俺にイジメられたがっているに違いない。そう思うと鴨下は、からかわずにはいられなくなるのだ。
 会社に入ってからも鴨下は、同期をよくいじめたし、後輩や部下もよくこき使わせてもらった。社会人になってからも鴨下はガキ大将的な存在だったし、こんな素晴らしい日々はいつまでも続くかと思っていた。その時は串田の言葉を思い出すことはほとんどなかった。たまに思い出したとしても、そのようになる気配がまるでない自分の人生を大いに誇りに思ったものだ。
 そんな状況は鴨下が43歳になったとき、全てが崩れ去った。会社が突然倒産したのだ。同僚たちは皆、学生時代の友人のコネや、取引先の付き合いのある会社に転職していき難を逃れたが、鴨下にはそのような友人も知り合いもいなかった。鴨下はこういう状況がどういうものなのか、うまく把握できずに酒を飲みながら日々を過ごした。きっと自分のようなガキ大将クラスの人間には、仕事の依頼が殺到するだろうと思ったのだ。
 しかし、状況はそんなに甘くなかった。会社が倒産してから1年が過ぎ、ようやく鴨下は自分の置かれた立場を悟り、仕事を探す気になった。しかし、常に尊大で傲慢な態度が鼻につくのか、面接はどこも受からなかった。そんな時から、鴨下はよく串田の言葉を思い出すようになっていた。
「今に見てろよ。おまえだって、いつか人にヘコヘコする日が来るんだからな」
 鴨下は笑った。見事に串田の言うとおりになったわけだ。
 そして現在の会社の面接がやってきたとき、鴨下はそれまで培ってきたプライドの全てをかなぐりすてて、面接官に対してヘコヘコしてみた。もうヤケクソだった。靴も舐めんばかりの勢いでヘコヘコしまくった。面接官は「こいつは使える」と思ったのか、大いに満足した表情をしていた。もちろん結果は合格だった。鴨下はその時ヘコヘコとしながら、心の中に串田に話しかけていた。
「おまえの言っていた“いつか”がやってきたぜ。俺は今、初めてヘコヘコしている。これが大人になるってことなんだな。ヘコヘコもやってみると悪くねえかもしれない。串田、おまえには脱帽だよ。今度おまえに会ったときは、思う存分ヘコヘコしまくる俺のことを見てほしいね」