私のあたたたた

「あーたたたたた。あたー!」
 これが私の癒しの呪文。私こと金城奈央子は、小さい頃にある拳法漫画を見て、この掛け声の虜となった。漫画のタイトルは忘れてしまったが、筋肉が肥大しすぎた主人公の服が破れるやつだ。私は通勤時や会議の途中など、イライラがマックスに募った時に人前でよくこの掛け声を発する。私のルックスはごく普通の丸の内OLだから、いきなりこんな掛け声をあげられると人は腰を抜かすようだ。
 今日の朝も会議中にイライラを抑えられなくなった私は思い切り「あたたたた」と叫んでやった。私の部署の人たちはこの振る舞いに慣れているからか、何も言わない。私が言い終わると、みんなその最中は沈黙してくれて、終わったかと思うと部長が「金城くん、それじゃ先に進んでいいかな」と言って空気を元に戻してくれる。
 私は私で、こんな会社に感謝しているのだが、やや少しばかり物足りない気持ちもある。私みたいな年頃のOLが突如我を忘れたように奇声を発するのだ。中には「金城くん、大丈夫か? 救急車を呼ぼうか?」と言ってくれる人がいてもいいではないか。優しすぎる同僚というのも考えものだ。
 しかしだからと言って、見知らぬ人が救急車を呼んでくれるかと言うと全くそうではない。昨夜も丸の内線の中で私は大声で「あたたたた」と叫んだが、誰も彼もが知らんぷりだった。全く、この国はどうなっているというのだ。うら若き美女が発狂したとしてもほったらかしか。なんて冷たい国なのだ。政治家としてデビューしようかしら。
 それでも私が今日少しご機嫌なのは、さきほど銀座線の中で「あたたたた」と叫んだ時に、なんと声を掛けてくれた青年がいたからなのだ。その青年はパリッとしたスーツを着ており、顔はお酒のCMに出ているあの人に似ていた。なんだっけな、あの人。私は固有名詞を覚えられないのが短所である。その人はとにかく、私が「あたたたた」と言い終わると、「ケンシロウですか」と話しかけてきた。私はケンシロウという名前ではないから、「金城ですが」と返した。すると、その男はきょとんとした顔をして、「ケンシロウの苗字は金城だったかな。そうかもしれない」とつぶやいていた。私はこの男が何について話したがっているのはよくわからなかったが、こんな絶叫OLに話しかけてきた勇気を称えてやりたかった。私は男に、次の駅で降りて一緒に「あたたたた」をやらないかと誘った。男はまるで要領を得ない顔をしていたが、うなずいた。そうして私と男は次の駅で降りて、ホームで思い切り「あたたたた」と叫んだ。周りの人たちは相変わらず知らんぷりを決め込んでいた。