ハエ大好き!

 きっかけは紫織里が恋人の翔也が読んでいたファッション雑誌を覗き込んだことだった。そこには今、ペットとしてハエを飼うことが流行っていると載っていた。
「へえー、最近ハエが熱いんだー」
「そうらしいぜ。芸能人とかもよく飼ってるってテレビで言ってるよ」
「ふーん。そうなんだー」
 紫織里はそう言って翔也の目を覗き込んだ。得意のおねだりポーズだ。
「なんだよ。その甘えるような目つきは。まさか買ってくれって言うんじゃないだろうな」
「えー、お願い。いいでしょいいでしょ。買ってよー」
「わかったよ。仕方ないな。おまえからそこまでおねだりされて買わないわけないだろ。今度の日曜日、ペットショップ行こうか」
「うん! 翔也、大好き!」

 紫織里と翔也は次の日曜日、国道沿いにあるペットショップに行った。そこには世界中から集まったハエたちが虫かごの中に入れられてブンブンと飛び回っていた。
「けっこういろんな種類がいるね」
「これなんかいいんじゃねえ? 緑と銀が混ざったようなカッコイイ色だし」
「私はこっちのあずき色っぽいほうがいいなー」
「ハエちゃんをお探しですか?」ペットショップの店員が2人に話しかけてきた。
「そうなんです。でも初めて飼うから、いろいろ不安で…」
「大丈夫ですよ。ハエちゃんはあんまり世話がかからないんで。最近だと、この種類なんか人気がありますよ。キイロショウジョウバエって言うんですが、芸能人の人たちにも人気があるんです」
「え? 芸能人が? だったら私これ欲しいかも」
 紫織里が翔也に頼むと、翔也は値段と財布を確認した。
「3万5千円か…。給料入ったばかりだから、なんとか買えそうだな。じゃあ、このハエください」
「ありがとうございます!」

 こうして2人はキイロショウジョウバエにキーちゃんと名付けて飼い始めた。キーちゃんはビールの空き瓶から出る発酵臭が大好きなため、2人が同棲する家は空き瓶でいっぱいになった。最初は紫織里もキーちゃんを猫かわいがりし、散歩にもよく連れていった。ハエサークルにも何度か顔を出し、ハエ友達もできた。しかし、ある日から突然、ビールの空き瓶から出る酸っぱい臭いに耐えられなくなってきて、家を空けるようになった。
「ただいまー」
「なんだよ、遅いじゃないかよ。今日はどこ行ってたんだよ」
「友達と飲んでたのー。あのさー、この家、臭くない? 空いてるビール瓶もう捨てようよ」
「何言ってるんだよ、おまえがキーちゃんの大好物だって言って並べたんじゃないかよ。キーちゃんはエビスビールのこってりとした臭いが大好きなんだろ?」
「えー、そうだっけ?」
「それよりさ、最近キーちゃんの散歩連れてってるのか? ずいぶん退屈そうにしてたから、今日は俺が連れてったけど」
「何よ、キーちゃん、キーちゃんって。あなた最近、全然私のことかまってくれないじゃない」
「おまえが家に帰ってこないからだろ」
「だって家の中が臭くて汚いからイヤなんだもん。そんなハエ捨てちゃおうよ」
「何言ってるんだよ、おまえが飼いたいって言ったから飼ってるんだろ?」
「もう飽きたかもー。なんてねー」
 そう言って紫織里は鼻をつまみながら寝室に入っていき眠ってしまった。
 翌日、翔也が起きてみると、紫織里の姿がなかった。ビールの空き瓶も綺麗に片付けられており、カゴにいるはずのキーちゃんもいなかった。
 翔也はピンと来て、自慢の愛車であるフェアレディZをぶっ飛ばして近くの保健所に向かった。すると、案の定、紫織里がキーちゃんの入ったカゴを保健所に引き渡そうとしているところだった。
「何するんだ、てめえ!」
 翔也は紫織里からハエのカゴを奪い取った。
「やめてよ! いいじゃないの。たかがハエじゃないの」
 紫織里は夜叉のような表情でカゴを奪い返そうとしたが、翔也は頑として返そうとしなかった。保健所の人は心なしかホッとしているように見えた。
「おまえみたいに命を粗末にするヤツは俺はもう付き合っていけねえよ」
「何よ、どうしちゃったのよ、翔也。あんた変わったね」
「別れよう。俺はこれからキーちゃんと暮らすことにするよ」
「そんな…!」
 こうして翔也はキーちゃんと暮らし始めた。翔也はガタイもよくてコワモテだったため、ハエを散歩している姿はとてもアンバランスで滑稽だったが、近所の愛ハエ家たちは翔也が本当にキーちゃんのことを好きだということがわかった。やがて、翔也はハエの散歩仲間の女性と知り合い、付き合い始めた。2人はその1年後に結婚し、彼女が飼うナガサキニセケバエのナガちゃんと、翔也のキーちゃんと4人で仲睦まじく暮らした。