空想の先輩

「お疲れさまです! はかどってますか?」伊織が高校のカバンを道路にどさっと置き、制服のスカートをたたんで虹野の隣りにぴょこんと座る。
「うん、まあまあかな」虹野が伊織のほうに笑顔を向ける。伊織は虹野のこの爽やかな笑顔が大好きだった。こんな笑顔で空想が好きだなんてとても思えない。空想というのはもっと薄汚くて、意地悪そうで、不健康そうな人がやるものだと思っていたからだ。
 それが虹野先輩と出会ったことで変わった。
伊織はいつもの学校の帰り道で、虹野が一点を見つめたままアスファルトの上にあぐらをかいて何時間もぼーっとしているのを見て気になっていた。格好は白いシャツにジーンズと清涼飲料水のCMから飛び出たような格好をしており、とても何時間も道路の上にいるとは思えないほど小綺麗だった。好奇心旺盛だった伊織が勇気を振り絞って「何してるんですか」と話しかけてみると、虹野は「空想です」とだけ答えた。伊織はそれ以来、虹野を空想の先輩として、尊敬するようになった。 
 しかし伊織は生まれてこのかた空想などということはしたことがなく、どうやっていいかわからかった。家でも両親に「空想ってどうやってするの」と聞いてみたが、「そんなことする必要はない」と言って叱られた。虹野はそんな伊織に優しく言った。
「蚊とか、ライオンとか思い浮かべてごらん」
 伊織は蚊とかライオンを思い浮かべた。すると、蚊やライオンがおずおずと少しずつ動き出した。
「何これ。す、すごい…。蚊やライオンが動き出しました」
「それが空想だよ」
 伊織はそれ以来、学校の帰りに虹野先輩の隣りに座ると、目をつぶって蚊とライオンを思い浮かべるようになった。先輩は目を開けたまま空想する。しかし、経験の浅い伊織は目をつぶらないとできない。時には全然うまく行かないこともあり、泣き出したくもなったが、虹野先輩はいつも優しく励ましてくれるのだった。
「うん、大丈夫。そんな日もあるさ。またいつかきっと動くから」
 そして今日もまた伊織は蚊とライオンを頭に思い浮かべる。蚊は20センチほど動き、ライオンは1メートルほど動いているようだった。うん、今日は調子がいい。
 伊織がニヤニヤしていると、虹野先輩は立ち上がり、尻についている砂をはらった。
「じゃあお疲れ。今日は僕、お先に失礼するわ。いい空想ができたんでね」
 先輩はそのまま伊織のもとを去ろうとした。伊織は今日こそ、先輩がどんな空想をしているのか確めるチャンスだと思った。
「先輩!」
「何だい」
「いつもどんな空想をしているのか教えてくれますか」
「君と同じようなものだよ。蚊とライオンが追いかけっこしたり、ケンカしたり、仲直りしたり。それの繰り返しだ」
 伊織の頭の中では、蚊とライオンは少しずつしか動かない。それがケンカや仲直りをするだなんて…。伊織は改めて先輩の偉大さに気付いた気がした。