淡路島のチャラ

 吉永よし子が淡路島のチャラと呼ばれるようになったのは、CHARAがデビューした2年後の1993年のことだった。よし子はあの時のことを今でも覚えている。高校のクラスメイトが、それまで全然目立たない存在だったよし子に向かって「吉永、あんたCHARAに似とるよね。淡路島のチャラや!」と言ったことだった。それ以来、高校の生徒たちは皆、吉永のことを淡路島のチャラと呼ぶようになった。音楽には全く疎かったよし子だが、淡路島のチャラと呼ばれだしてから、学校のオシャレな生徒たちが寄ってくるようになりCDなどを貸してくれたため、初めてCHARAがどういう存在なのか理解した。淡路島のチャラという名前は同じ学校を飛び出し、駅前を歩いていても年上の兄さん姉さんからそう呼ばれるようになったため、彼女はCHARAがどのような人なのか研究しなくてはいけないと思い始めた。
 クラスメイトが指摘したとおり、顔のつくりは確かにCHARAに似ているようだった。よし子はよりCHARAに似せるために、それらしき服装を通販で買った。当時はインターネットを持っていなかったため、情報を得るのは大変だった。
 しかしその努力の甲斐あって、メイクの方法や着こなしなど、よし子は限りなくCHARA本人に近づいてきた。そのおかげで、学校外のオシャレな人々もよし子のもとにやってきて、一緒に買い物したり、マクドでお茶をしたり、公園でおしゃべりをしたがった。やがてバンドをやっている先輩もよし子のもとに来るようになり、ヴォーカルになってくれと頼まれた。よし子は全然歌に自信はなかったが、彼女たちのバンド「ジュエリーポップ」がライブをやると毎回会場は人で溢れ、淡路島で最も人気があるバンドとなることができた。もはや、淡路島に住む若者でよし子のことを知らないものはいなかった。
 そんな彼女の前に現れたのが、加藤仁三郎だった。加藤は古着屋の店員として働いており、その日本人離れした顔立ちが浅野忠信に似ていると言って、淡路島の浅野忠信と言われていた。当然のごとく、周囲はこの2人をくっつけたがった。よし子は最初加藤を見たときは全然恋心を抱かなかったが、一緒につるむうちに自然と付き合うようになった。よし子と加藤は同棲し始めた。毎年のように中学に入学した若者たちがこの2人の家に遊びに来ることを憧れるようになった。2人の家に遊びに行くと、それだけで学校の人気者になれるのだそうだ。
 よし子はいつのまにか若くなくなっていたが、みんなの期待に応えられるように最近のCHARAの服装もチェックして、似たような服を買っていた。加藤も古着が大好きだったから、2人で歩くと本物に見られることもあった。2人にはその後結婚し、子供ができて4人家族となったが、家族4人で歩いている姿も中学生からよく写真を撮られたものだった。
「2人はどう見ても、淡路島の憧れのカップルNO1っすから! っすから!」と言われたこともあった。30歳をゆうに過ぎたというのに、こんなに若者から気にかけてもらえるということはとてもうれしいことだった。
 しかし、よし子と加藤は昨年別れた。本家の2人が離婚したのだから、そのほうがすわりがいいと思ったからだ。離婚を切り出したのは、よし子のほうだった。加藤は最後まで反対し続けたが、自分は淡路島のチャラと呼ばれる以上はここで別れなくてはならないと言い張った。子供はよし子が引き取った。
 日々を生きることはとても辛く、時には泣いてしまうこともある。しかし、よし子は淡路島のチャラなのだ。若者たちの憧れの的なのだ。そう思うと、これ以上めそめそしてはいけないと気持ちが引き締まり、またビビッドな服をして外に出ようと思うのだった。