徒競走あらしの三蔵おじさん

 その年、西区の中学校では、徒競走あらしを防ぐための防護ネットが張り巡らされていた。徒競走の時にはものものしい警備となり、民間の警備会社からも警備員が派遣されてきた。それまで楽しそうにしていた父兄たちも、心なしか徒競走が近づくと緊張しているように見える。
 徒競走の前には校長先生からのアナウンスがあった。
「今年こそは、今年こそは、三蔵おじさんの侵入を防ごうと思いますので、父兄の方々は期待しておいてください」
 観客席にはテレビカメラも来ていた。生徒が面白ニュースのネタとして提供したためだ。三蔵おじさんのやっていることは立派な犯罪だが、平和なニュースとして取り上げられるのもよくわかる。
 三蔵おじさんは、おじさんとは言えどもまだその年で29歳だった。角田三蔵は子供のころは神童と言われており、大学も超一流のところに行ったが、その後就職した商社で失敗した。社会の厳しさを乗り越えられなかった彼は仕事を辞め、家に引きこもるようになった。しかし、その年から6年前、突然自分の母校の運動会の徒競走に現れ、ぶっちぎりで1位を獲得した。三蔵は熱狂して、満足げな顔をして帰っていった。おそらく子供のころにずっと一番だった栄光と快感が忘れられなかったのだろう。それから毎年、三蔵は徒競走に飛び入り参加し、子供たちを抜き去った。しかし、その容貌があまりに異様なことと、足の速いことが取り柄の生徒のプライドをへし折ってしまうことなどから、先生や父兄からは歓迎されなかった。一時は先生たちが取り押さえようとすることもあったが、三蔵はその日に懸けていたのだろう。絶対に捕まってなるものかと全力で逃げ去るのだった。
 それから毎年のように、先生たちは三蔵を捕獲しようとしたがダメだった。それがその年、ついに警備員を雇うことに至ったのだ。
 徒競走はとどこおりなく進行していった。今年はさすがにこのものものしい警備にひるんだかと思われた矢先、あと3レースで終了というときになって、三蔵がどこからか走ってきた。三蔵の姿を見つけた警備員や先生は束になって飛びかかった。しかし、三蔵は昨年よりも敏捷さもスピードも増し、瞬く間に彼らの手を振り切ってゴールした。
 三蔵はその後、校門から外に出るのかと思われたが、突然壇上にあがり、マイクを校長先生から奪った。
「みんな、僕の走りを毎年楽しみにしているだろうから。ここで挨拶をしようと思う。僕は三蔵だ。この学校で神童と言われた三蔵だ。みんな僕のことを覚えているよね?」
 父兄や先生からブーイングがあがった。
「誰もおまえのことなんて待ってねーよ」という野次も飛んだ。
 それを聞いた三蔵はびっくりしたのか、うずくまって泣いてしまった。その様子があまりにかわいそうだったから、先生たちは彼の肩を抱き、家に帰してあげた。オーディエンスからの冷たい反応は引きこもりの彼には刺激が強すぎたのだ。
 三蔵はその次の年、徒競走に現れなかった。現れなくなると、それはそれで寂しいもので、前年ブーイングを飛ばした人々は罪悪感を感じた。彼らは有志を募り、三蔵の家に謝りに行くとした。
「さんぞうくーん。ごめんねー」
 窓の下でそう声を合わせると、窓が少し開いて三蔵が顔を出した。
「本当にごめんって思ってるの? じゃあ、来年も徒競走出ていい?」
「いいよー」
 PTAの会長が声をかけた。三蔵は「えへ、えへえへ」と笑って窓を閉じた。
 そのまた次の年、学校側は警備員を雇うことをやめ、徒競走に三蔵が現れるのを待った。三蔵が現れたとき、会場は拍手で包まれた。みんな迷惑に思いながらも、三蔵おじさんが現れるのを楽しみにしていたのだ。この事実は三蔵を驚かせ、生きる糧となった。
 やがてその小学校では、毎年必ず徒競走に現れる三蔵おじさんの小さな銅像を校門のところに造って建てた。三蔵おじさんはこうして、96歳に大往生するまで毎年徒競走に現れ続けた。60歳を過ぎてからは1位になることも難しくなったが、そこで走ることが彼の生き甲斐となっていたのだ。80歳を過ぎると子供たちが手を貸し、一緒にゴールした。その光景は美しかった。子供たちは三蔵おじさんが若い頃どんなにワイルドで暴れん坊だったかを知らない。