売れない魚

 ひとり暮らしをしていると、隣にどんな人間が住んでいるのか気になるものだ。粕谷美鈴は37歳になるが恋人は15年間おらず、毎日会社が終わると早々に帰宅した。美鈴の最近のお愉しみは隣に引っ越してきた若い男とすれ違うことだった。彼はフリーランスで働いているのか、一日中家にいるようだった。彼は朝でも夜でも、小さなカバンを持ってちょこちょこと家を出たり入ったりしているため、美鈴と遭遇することは多かった。
 男は美鈴の好みだった。顔は小さく、手足も細く長く、身長は190cmほどあった。髪型はファッション誌から飛び出たような無造作ヘアで、顔の造りも端正だった。美鈴はきっとモデルか何かなのだろうと思った。こんなに恵まれたルックスを仕事に有効に活用していないとはとても思えない。
 美鈴は好きになると積極的に自分から攻めるタイプなので、ある日、男に話しかけてみることにした。男は見た目のクールさとは裏腹に、気さくに会話に応じてくれた。美鈴が職業について聞くと、「売れない魚を売ってるんです」と答えた。
 美鈴は困惑した。売れないカメラマンだとか、売れない画家だとか、売れないバンドマンとか、そういう連中は若い頃にたくさん見てきた。でも売れない魚って何だ? 好奇心旺盛な美鈴はさらに深く斬り込んだ。
「どんな魚を? もしよかったら見せていただけないかしら?」
 美鈴はこの男になら抱かれてもいいと思っていた。もしも魚云々が口からの出まかせで、美鈴を家に連れ込むための口実でもいい。ただ、このチャンスを逃してしまうと、この先はいつになるかわからない。
 男は快諾し、そのまま玄関口に待たされることなく、すぐに家の中にあげてくれた。男の部屋は何もなかった。ただ、ほんのりと海の匂いがした。
「これです」男が言って冷蔵庫を開けた。美鈴が覗くと、中には変色して腐りきった魚が20匹ほど並んでいた。
「これなんですけど、全然売れなくって」
 男はそう言い、美鈴はその目の奥にあるものを確かめようとした。本気で言っているのか、冗談で言っているのか知りたかったからだ。しかし、男はどう見ても本気だった。男がそのまま身の上を語ったところによると、彼の名前は武蔵原俊平と言い、和歌山県の港町で育った。彼は小さい頃に釣った魚が、近所のおじさんから「こりゃ売れるよきっと」と褒められて舞い上がり、その魚を大人になるまでずっと冷蔵庫に入れておいた。武蔵原は高校を卒業すると、地元の食品会社に就職した。目的は貯金をしたかったからだ。やがて5年働いた後、貯金は800万円になり、これで東京に行けると思った。東京を選んだのは、都会には人が多いから、自分が釣った魚を買ってくれる人が大勢いるだろうと漠然と思ったからだった。
 こうして武蔵原は、小さい頃に釣って大人たちに褒められた魚20匹を持って上京した。武蔵原は金銭感覚が乏しく、この20匹を売れば一生暮らしていけるだけの金が入るに違いないと思っていた。
 しかし、どれだけ頑張っても魚は売れなかった。武蔵原は怖いもの知らずだっただけに、どんどん大企業に営業に行った。服装は食品会社で着ていたスーツを着ていった。応対した人々は、武蔵原が「魚を売りたい」と言うと、大きな漁業プロジェクトか何かと勘違いして話を聞いてくれた。しかしそれがたったの20匹の、しかもボロボロに腐った魚だと知ると、一瞬にして放り出された。警察や医者を呼ばれたこともあった。武蔵原はこうして現実を知ることになった。自分の持ってきた魚は、売れない魚なのだとわかった。
 そうとは言っても、この魚を売るのは武蔵原の小さい頃からの夢だったから、そう簡単にあきらめるわけにはいかなかった。武蔵原は親から「そろそろ実家に帰っておいで」と言われるのに後ろ髪を引かれながらも、自分に5年のタイムリミットを設けた。5年経って売れなかったら実家に帰ろう。そう思い、スーパータイトな貧乏生活を続けながら貯金を切り崩し、魚を売り続けた。だが、1匹も魚は売れなかった。美鈴の住む安アパートに引っ越してきたのは、前のマンションだと家賃がもう払えなくなったからだ。武蔵原が言うには、あと半年頑張って売れなかったら実家に帰るとのことだった。
「売るって言ってもさ、どういう場所を回ってるの?」
「最近だと、近所の民家ですね。お宅もそろそろ回ろうと思っていたんですよ。片っ端からピンポンベルを押しての、飛び込み販売です。でも、都会の人は冷たいので、すぐに追い返されますね。たまに興味を持ってくれる人もいるんですが、僕の持っている魚の実物や写真を見ると、すぐに悲鳴をあげて、出てけ!と言うのです」
 美鈴はその話を聞いて、今時なんて健気な青年なのだろうと思った。若者たちがイージーな結果ばかりを追い求める中で、この根気と熱意は賞賛に値するではないか。確かに冷蔵庫の魚は原型をとどめないほどに崩れているし、こんな腐敗物に金を出す人は地球上のどこの国を回っても皆無だろう。だが、問題は魚の質ではなく、彼がその魚に込めた夢なのではないか。美鈴は意を決し、武蔵原の目を正面から見据えて言った。
「わかったわ。その魚、わたしが全部買いましょう」
 そのときの武蔵原の表情を美鈴は一生忘れないだろう。彼はうれしさと戸惑いが混じったような表情を見せた。後に説明してくれたところによると、全部いっぺんに売れてしまったことで自分の夢が叶い、このさき何を目標にして生きていいかわからないという恐怖感だったという。武蔵原はそんな感情の波に翻弄されながら、そのとき人が一番言うべき言葉を搾り出した。
「ありがとうございます」
 こうして美鈴は全財産の2250万円をはたいて、魚を全部購入し、彼の夢を叶えた。後日、彼に現金を渡すときは、これじゃあ売り上げを伸ばすためにホストに金をつぎ込む女と同じじゃないかと思った。だが、その次に彼が放った一言で、美鈴の灰色だった人生は一瞬にしてバラ色に変わった。
「僕と結婚しましょう。あなたは僕の釣った魚をいいと言ってくれた。僕はあなたのような人だったら価値観が合うし、この先ずっと一緒に生きていけると確信したのです。和歌山の両親にはもう話してあります。夢も叶えたし、嫁も見つけたと言ったら2人とも泣いて喜んでいました。夢を叶えた今、もう僕は東京に用はありません。あなたと一緒に海の見える小さな家に暮らせればいいと思う」
 こうして美鈴はプロポーズを受けて仕事を辞めた。同僚たちに彼の写真を見せると、そのモデルのような格好よさに二の句も告げられずに驚いていた。職業は?と聞かれると、美鈴は誇りを持って答えた。「売れない魚を売っていたのよ」