ザ・風景描写

 風景描写の鬼と言われる観音寺勘蔵がミニバスツアーを行うと聞き、元原智弘はすぐにエントリーした。観音寺は智弘にとって神のような存在だった。智弘は小学生の頃に観音寺の書いた小説の中の風景描写を読み衝撃を受け、風景描写家になることを決めた。風景描写家。どこを探してもそんな職業はなかったが、智弘はなんとかなると信じていた。なんとかなる日を信じているからこそ、45歳になってもコンビニでアルバイトをしながら、夢を追いかけることができるのだった。
 智弘が観音寺のバスツアーの集合場所に行くと、参加者は3人しかいなかった。智弘はあまりの少なさに驚いたが、これは世間の人気から言うと、至極当たり前なことだった。観音寺の書く小説は30年ほど前に一瞬もてはやされたのだが、彼の書く小説はとにかく風景描写がうまいだけで内容がまるでなかった。当時の文壇は風景描写が上手であることだけが何よりも重要とされており、文学青年からは圧倒的な支持を受けていたのだ。しかし、この風潮も自然に風化していき、観音寺は時代から忘れ去られた人となった。ただ、観音寺自身も飯を食べなくてはならないから、こうしてバスツアーやサイン会を開催して昔ながらのファン相手に食いつないでいるのだった。
 智弘はサイン会には何度も足を運んだことはあったが、バスツアーに行くのは初めてだった。観音寺が智弘の乗るバスに乗り込んできたときは緊張のあまり失禁しそうになったほどだった。観音寺は行きのバスの中で、その自慢の風景描写力を軽く2回ほど披露した。バスから見える景色をマイクを通してアドリブで描写し、彼が喋るごとに3人の乗客は「おおお」と唸り声を上げてどよめいた。
 しかし、彼の風景描写力が発揮されたのはこのときだけで、後は普通の旅行となんら変わりないプログラムが続いた。ビンゴ大会、カラオケ大会、ピンポン大会、温泉に入浴、宴会宴会また宴会。観音寺は75歳という高齢にもかかわらず、これらのプログラムを大いに楽しんだ。智弘自身も観音寺とこのような時間が過ごせることを幸せに思っていた。
智弘は観音寺に、何度か自分の夢についても語った。
「観音寺さん、僕は風景描写家になろうと思っているのですが、どうしたらいいでしょうか」
「そんなの無理だよ、君。風景描写で食っていけたら、私がこんなバスツアーをやっているわけなかろう。それより、このかまぼこ美味しいな。もっと食おう、かまぼこ食おう」
 このような痛い指摘を聞いて智弘は落ち込んだが、現実なのだから仕方なかった。このような貴重な機会に立ち会えただけでありがたいし、なんとか残りのバスツアーを楽しもうと決心した。
 しかし、智弘以外の2人はそうは思っていなかったようだ。2人はそれぞれ青森と徳島からやってきた観音寺の熱烈なファンだった。観音寺とのバスツアーと聞いて、観音寺の風景描写をいやというほど聞けるかと思ったが、行きのバスで披露した2回だけだったことに大いに腹を立てていた。観音寺がカラオケで石川さゆりを気持ちよさそうに歌っていても、「そんなことより風景描写やってくださいよ、先生!」とクレームを付け出した。2人は酒が入っていたのと、同じことを思う者が自分以外にいたことで気が大きくなっていたのだろう。次第に彼らの野次はエスカレートしていき、「売れてねえくせに!」「やい観音寺! おめえなんか風景描写しなかったら、ただの人なんだよ!」というひどい言葉が飛ぶようになった。
 智弘はそのような状況をハラハラして見ていた。もしここで自分が出ていって2人を注意したら、逆に殴られてしまいそうだし、観音寺の悪口を黙って見ているのも辛い。結局なすすべもないままに頭を抱えていると、観音寺がマイクを持ったまま信じられないような反撃に出た。
 なんと観音寺は批判を続ける2人を、壇上からストレートに風景描写したのだ。
「私がカラオケで石川さゆりの曲を歌っていると、私のファンだと名乗る男2人が私のことを批判しだした。片方の浴衣は腐った木の皮のようにべろりとはだけ、もう片方の浴衣は長年タンスの中に眠っていたYシャツのようにパリパリとした皺がついていた。2人の白髪と黒髪が混ざった頭は壇上から見るとまるでごま塩のように見えた。ごま塩が私に毒づく。その光景はあまりにシュールで、私は歌いながらも愉快な気分になった。彼らの額には今、汗がにじんでいる。その汗と、先日のチリ落盤事故で助かった者たちの汗はどちらが美しいだろうか。その答えを出すのを私は保留したいと思う」
 2人はこの風景描写を聞いて感動したのか、泣き出してしまった。
「ありがとうございます。僕らはもっとそれを聞きたかったんです」
「はるばる遠くからバスツアーに参加できて本当によかった」
 智弘も同じことを思っていた。たとえ自分が風景描写で食っていけなかったとしても、観音寺に一生ついていくことだけはやめないようにしようと心に誓った。