7代目パン屋のジャルカミレの法則

 今年の10月1日から父の後を継いでパン屋の店長となった。父から店の名前を変えるか?と聞かれたので、今風の「エトワール」という名前にした。父の代までは「星村パン屋」という古臭い名前だったので、あえて「星」をフランス語訳にしてみたのだ。すると、狙いは見事に当たったようで、これまでは近所のおばさんおじさんしか来店していなかった店に、突然オシャレなカップルが姿を見せるようになった。店の内装は美容室風にしていたし、ダマンドとかスクレとかクレームとかそういうフランス語をパンの名前に取り入れた。それよりも何よりも、やっぱり店の名前を「エトワール」にしたことが大きかったのだろう。自分が客だったら、「星村パン屋」にはちょっと入る気にはならない。
 父は最初、自分の代まで6代も続いてきたパン屋の店名を変えることに反対するかと思ったが、あっさりと同意した。
「そりゃおまえ、おまえが店長なんだからおまえの好きにすべきだよ」
 そして、客の入りがよくなったのを見たときには、きちんと褒めてくれた。
「おまえ店の名前変えてよかったな。商売のセンスあるんじゃないか。文学部なんて行かせちゃったから、父さんおまえの将来どうなるんだって思ってたんだよ」
 むしろ店名を変えたのは、文学部に在籍していた頃に読んだ小説がヒントになったわけだから、文学部に行ったのも無駄ではなかったことになる。
 少し話が逸れてしまった。僕がここで伝えておかなくてはならないのはジャルカミレの法則についてだ。父から店を継ぐことになったとき、父が珍しく神妙な顔をして伝えてきたことがあった。
「おまえにひとつ教えておかなくちゃなんねえことがあるんだ。この店は明治時代から続く老舗なのはおまえも知ってるよな。おまえで7代目だってのも知ってるよな。でな、この店には代々伝わってきた法則というものがあるんだ。それがジャルカミレの法則だ」
 父からその法則についての説明を受けたのだが、僕はその内容を聞いてどうにも釈然としなかった。父が言うには、毎週水曜日に「叫ぶ男」が必ず店に現れるらしい。その「叫ぶ男」というのは明治時代からずっと来続けており、どうやら店の守り神のようなのだ。
 僕はその話を聞いて何を馬鹿なことを言っているのだろうと思った。パンの仕入れにパソコンを使っているようなこの時代に守り神だって? 明治時代から来続けているだって? そんな風に全く信じようとしなかった僕だったが、その後本当に「叫ぶ男」を目撃することになる。
 僕が店長になってから最初の水曜日はいつになくオシャレなカップルで混雑していた。僕は笑顔で対処していたが、腹の中では彼らをマシンガンで乱射したいような気分だった。僕は昔からオシャレなカップルにコンプレックスがあり、とてもじゃないが仲良くなれる気がしない。いや、こういった個人的なことはまた別の機会に話すとしよう。とにかくそんな忙しい日に「叫ぶ男」は現れたのだ。男は真っ赤なパーカーを着た斉木しげる似の中年男性で、店内に入るやいなや、「ヌモンモー」とナマケモノのような叫び声をあげた。周りのオシャレなカップルたちは度肝を抜かれたようで、みんなが見て見ぬフリをしていた。やがて男は3分ほど叫び終わると、すっきりとした顔で出て行った。
 その日僕は夕食の食卓で父に報告した。
「きょう来たよ。叫ぶ男」
「おお、よかったな。それが我が家に伝わるジャルカミレの法則だ」
「ふと思ったんだけど、なんで法則なの? なんでジャルカミレなの?」
「それは俺にもわからんよ。明治時代から伝わるんだから」
 僕は昔の家計図などを出して、ジャルカミレの法則についての手がかりを見つけようとしたがダメだった。僕は次の週の水曜日が来たら「叫ぶ男」に聞いてみようと思った。
 そして次の水曜日、僕は斉木しげる似の男がさんざん叫んで店を出た後に、パートの長浜さんに「ちょっとレジお願いします」と言い残して追いかけていった。
「すいません」
 男は振り向いた。「ヌモンモー」
「なんでジャルカミレの法則というか教えてくれませんか」
 男は得意そうに身振り手振りを混ぜて説明を始めた。「ヌモンモー、ヌモンモー」しかし、僕には男の言っている意味がよくわからず、ただうなずくことしかできなかった。
 それ以来、男は相変わらず毎週やってきて店内で叫んでくれている。ジャルカミレの法則が結局何なのかはわからなそうだが、もしも自分に子供ができて、店を継ぐことになったら、いつかきちんと話してあげないといけないと思っている。