快速電車あさぎ

 来た。来た来た。柳本港晴の頭の中に、電車の汽笛音と走行音がこだまする。会議の進行状況はすっかり滞っており、そろそろ現れるのではないかと思っていたその矢先だ。柳本は会議を進行する尾崎の背後に近づき、耳元で何かささやいた。尾崎はきょとんとした顔で柳本のことを見て、柳本は会議室にいる者たちの視線を背中に受けて部屋を出た。
 小島が尾崎に訊ねる。
「なんであいつ出ていったんだ?」
「それが…よくわからないんですよ」尾崎が不安そうに答える。
「また、あさぎだろ」柳本と同じ部署の宝来が答える。
「そうですそうです。あさぎとか言っていました」
「あいつはいつもそうなんだよ。自分に何か都合が悪いことがあると、快速電車あさぎが頭の中を走って気が散るって言って逃げるんだ」
「快速電車あさぎ? なんだね。それは」吉永が訊く。
「知らないですよ。本人に訊いてくださいよ。僕だって同じ部署としてだいぶ迷惑しているんですから」

 柳本の頭の中に快速電車あさぎが走るようになったのは、10年ほど前のことだった。柳本は自分のパーソナルスペースを侵されるのが何よりも嫌いで、当時隣の席に座っていた梶浦のコートが人の机の上まではみ出ているのを見て怒鳴り散らした。
「おまえ、自分のスペースしっかり守れよ。ここの線からこっちは俺のスペースだぞ。いいな」
 すると、頭の中で電車のような汽笛音が響いたのだ。ポー。ポー。
「なんだ。この近くに線路でもあったか」
「いや、ないと思いますけど」
 柳本はそれ以後、怒って頭に血が上るたびに頭の中にあさぎが現れた。あさぎの汽笛音と走行音の大きさは次第に増していき、目の前のことにまるで集中できなくなった。そうして柳本は快速電車あさぎが頭の中を走っていることを理由に会社を休み、仕事を放棄したものだった。

 疲れていたのか、今回のあさぎはずいぶん長時間走行をしているようだった。会議室を抜け出し、公園でタバコを吸っても一向にいなくならず、そのまま家に直帰する。しかし、翌朝起きてもあさぎの音は頭から止まなかったため、柳本は会社にメールを送り、長期休暇を申請した。「快速電車あさぎが止まる気配がないため、会社をしばらくお休みさせていただきます」
 それから3日が過ぎ、1週間が過ぎ、1年が過ぎた。柳本の頭の中であさぎの音はえんえんとループし続け、いつのまにか柳本の名前は会社の名簿から削除された。