焦げ蔵の晩年

 95歳になった橋本焦げ蔵(こげぞう)は、若干の体力の衰えを感じながらも1日30分の散歩を行うほどの元気はあった。焦げ蔵の朝は5時から始まる。まず自らの色彩感覚をを活性化させるために墨汁で絵を描き、腹が減ったら朝飯を食べる。そして日課となっている散歩を行い、帰ってきてからは作品づくりに取り掛かる。
 もはやこの日本には焦げ蔵の作品を買ってくれる人間はいないが、自分が辞めてしまったらこの技術を継げるものは誰もいない。それが大きなモチベーションになり、95歳になった今でも作品作りという荒波の中に身を投じることができるのだ。
 今の若い人にはなじみがないかもしれないが、焦げ蔵の作る作品は全盛期には何千万円もの値打ちがつく代物だった。焦げ蔵は食パンを焦がして焦がして真っ黒な前衛アートを作り上げる。戦時中には人々はこの真っ黒に焦げたパンを「美しい!」「苦くて美味しい!」と言って買い求めた。炭が身体にいいから、この焦げも身体にいいに違いないとされ、健康食品にも名を連ねていたこともある。
 財閥などの上流階級の人間の食卓には、いつも焦げ蔵が作った黒焦げの食パンが並んでいた。焦げ蔵の作る作品はアートであり、高級食品であった。当時の焦げ蔵は時代の寵児でもあったため、女性関係も派手で、相当な数の浮名を流したものだ。
 しかし、日本が戦争に負け、アメリカ軍たちがやってきたときに、焦げ像の運命は一転することになった。アメリカ人は日本人の富裕層たちが真っ黒のパンを食べているのを見てクレイジーだと言って騒いだ。やがて焦げがガンの原因になることがわかり、焦げ蔵の作品を買うものは誰もいなくなった。そこからの転落はあっというまだった。焦げ蔵が人気者だったときにチヤホヤしていた人間はみんな彼の元を去り、収入もなくなった。幸いにも焦げ蔵は家を買っていたから、住む場所には困らなかった。近くに住む畑を持っている人から食べ物を分けてもらい、なんとか食いつなぐことだけはできた。
 そこまで凋落した今でも、焦げ蔵の作品作りへの意欲は全く失われていない。焦げ蔵は誰が買うとも決まっていない黒焦げの食パンを毎日焼き、その焦げ目の黒さを自画自賛する。珍しいもの好きの人間がたまに焦げ蔵の家を訪ねてくることがあるらしいが、彼らは一様に全盛期の頃よりも凄まじい作品を作っていると言って驚くのだった。95歳になってもなお、ものづくりへの情熱が衰えない男、焦げ蔵。全く恐るべしである。願わくば、彼の作品をまた誰かが買うような時代が来ればいいのだが。