イッヒの上にも3年

「3年だけ、3年だけ許してくれ。それでモノにならなかったらあきらめるから」
 榎木がそう家族に約束してもう3年が過ぎた。3年前、榎木はそれまで勤めていた会社を辞め、憧れのドイツ留学を決めた。ドイツを選んだ理由は他でもない。クラフトワークが好きで好きでたまらなかったからだ。
 もちろん妻は猛反対した。双方の親も猛反対した。しかし榎木にはそれまで企業戦士として働いて貯めたマネーが唸るほどあったため、なんとか3年の期限でということで説き伏せた。しかしドイツ留学には思いのほか金がかかり、2人の息子も私立に入学したため、唸るほどあったはずのマネーは底をつきていた。今は妻がパートに出て、家族を養っていた。
 榎木は家族と連絡を取るとホームシックになるからという理由で、連絡先を明かさなかった。しかしそれは真っ赤な嘘で、遊びに集中したかっただけなのだ。榎木は留学という建前のもと、ドイツの遊びという遊びを全て体験した。ライブハウスやクラブに入り浸り、贅沢な食事や酒に湯水のごとく金を使った。
 しかし、榎木は3年もドイツにいながら何の努力もせず、一言もドイツ語を話すことができなかった。榎木は一人でいることを好んだため、ドイツ人と接することはほとんどなかったのだ。
 そして3年が過ぎ、榎木のタイムリミットが来た。榎木は3年ぶりに妻に連絡をし、日本に帰る旨を告げた。その際に「3年経ってモノにはなったけど、日本が恋しくなったから帰る」と言った。それを聞いた妻は、夫が3年の間にドイツ語をマスターしたと思い込んだ。夫は自分と違って名の知れる大学を出てるから、さすがに勉強ができるもんだと感心した。
 久しぶりに成田空港に着くと、妻と息子2人が迎えに来ていた。息子はなんと榎木をドイツ語で出迎えた。それを聞いた榎木は面食らった。息子は父がドイツ語ペラペラになってくると思って、この3年間欠かさずに勉強してきたのだ。息子がドイツ語で「ドイツはどうでしたか?」という意味のことを言う。妻がそれを見て優しい笑みを投げかける。榎木は何を言っているかさっぱりわからないから、「さんざんドイツ語漬けの生活を送ってきたんだから、日本では勘弁してくれよ」と日本語で言って逃げた。息子たちはそれ以来、父のドイツ語を聞く機会はなかった。家でも何回かドイツ語で話しかけたが、「だからやめろって!」と言って逆ギレされた。
 息子2人はせっかく覚えたドイツ語をどうしていいかわからず、大学在学中にドイツへ留学。向こうで会ったドイツ人の女性と結婚する運びになった。息子たちは彼女たちに「うちの父はドイツ語がペラペラなんだ」と自慢したが、その妻たちも義父がドイツ語を喋るのを見ることはなかった。