カパンクバンドクロニクル

 カパンクバンドの始祖を言われているモスキートレスキューが先日解散を発表した。同バンドが活動した期間は約2年間。これはあのカパンクブームと時期をほぼ同じくする。
 モスキートレスキューが結成されたのは2010年12月。元僧侶である片山勝男が蚊の解放を訴えて高校時代の同級生とともにバンドを組むことを決めた。彼らはそのプリミティブなサウンドだけでなく、徹底して蚊を擁護し、人間を敵視した歌詞が面白がられて人気が上昇。翌年2011年2月にはファーストアルバム『蚊あさん』をリリースし、ネットやテレビ、雑誌などで引っ張りだことなった。評論家勢は最初、イロモノバンドとしてバカにしていたのだが、彼らのメッセージに共感する若者は多く、次々とフォロワーバンドが登場。これによってカパンク・ムーブメントが起こり、政治や暴力など、人間のエゴを歌った従来のパンクバンドはことごとく凋落していった。
 カパンクブームが軌道に乗ると、ソフトなカパンクバンドとハードコアなカパンクバンドに人気が二分されるようになる。ソフトカパンクの中で有名なのはヒューマンバイバイだろう。彼らの代表曲『まずは蚊を愛そうよ』は自動車のCMに使われ大ヒット。紅白歌合戦にも出場した。
 だが、そんなソフトカパンクを許せない者たちがあった。それがハードコアカパンクの連中である。たとえばアルバム『俺たち蚊ーミネーター』のミリオンヒットで有名なヒューマンキルキルは行動派とも知られ、街頭演説で徹底した蚊擁護、人間卑下を行い、時には自分たちの家で飼っている蚊の大群を公共の場で巻くというテロ活動を仕掛けた。これに対しては賛否両論が巻き起こり、国会でも証人喚問が行われたほどだ。しかしながら時代が完全に蚊擁護の機運が高まっていたため、彼らの行動は完全に合法であるとされた。これによりますます蚊たちは優遇されて、人間たちは肩身の狭い思いを感じながら暮らすようになった。
 そんな中、カパンクバンドの父であるモスキートレスキューは特にどちら側の味方につくこともなく、ただひたすらにカパンクフェスを行うなど、蚊愛護運動の普及につとめていった。リーダーの片山は若者の支持を集め、ドラマやバラエティにも出演した。ブームが過ぎた今では考えられないことだが、蚊のミスユニバースオスロで選ばれることになり、片山はこの審査委員長も勤めている。
 ただ、どんなブームもいつかは終わりが来るものである。あんなにどこの雑誌でも蚊のことばかりが特集され、OLや女子高生が蚊の話ばかりしていたのにもかかわらず、2012年の春頃から途端に人々は蚊の話をしなくなった。当然のごとくカパンクバンドのイベントには人が入らず、ファッションでカパンクバンドをやっていた連中は次々と解散して普通の企業に就職した。
 モスキートレスキューは自分たちが作ったブームだけに、最後まで責任を持ってやり遂げないいけないと思い、以前よりも多いペースでライブやCDリリースなどを行った。しかしそんな努力もむなしく動員や売り上げは減っていき、ついには片山以外の全員が脱退したい旨を申し出た。
 これを受けて片山は解散を決意。蚊の動物園である山梨県の蚊園で解散ライブを行ったが、動員は50人にも満たなかった。今ではカパンクブームがあったことすら人々は忘れてしまっているし、自分たちがどうしてあんなに夢中になったのかも覚えていないはずだ。ただ片山は当時たくさんの蚊から感謝されたことを忘れないし、あのときの思い出さえあればずっと生きていけると思う。今はまた人間が蚊を嫌がる時代となってしまったが、再び害虫であろうと何であろうと生き物の殺生を禁じようという時代が来るだろう。そのときは必ず再結成を求められるだろうから、その日までなんとか雑草を食らってでも生き抜くつもりである。