嫌いな言葉:プライベート

 毎週毎週、結婚相談サイトから送られてくるプロフィールメールに食傷気味だった私は、今ではほとんどそれらに目を通すことはなくなっていた。ただなんとなく、登録を解除するのが面倒くさかったから、次々と受信ファイルが知らない男たちのプロフィールで埋め尽くされていくのをほっておいた。
 それでもさすがに、受信ファイルの未読メールが1000件を超えてくると、さすがにパソコンの起動も遅くなる。私は重い腰を上げて、それらを一挙に削除しようとしたとき、ふとカーソルが止まった男のプロフィールの中のある言葉が目にとまった。
 そこにはこうあった。
「嫌いな言葉:プライベート」
 私はその瞬間、体中に電流が走るのを感じていた。いた。これこそが運命の男である。私はいかにその言葉に感動したかという旨を書き、自分のプロフィールとともに返信した。相手はよほど忙しかったのか、それに対する返信は2週間ほど来なかった。私も仕事に忙しくてほとんどその相手のことを忘れてはいたが、そんなある日、いきなり携帯に知らない番号から電話があった。その男だった。
「会いましょう。今すぐ」
 男は私の働く会社の下まで車でぶっ飛ばしてきた。「ごめんなさい。30分しかないので、チャチャッと話しましょう」男は言い、私は大いに賛同した。私も次なるプロジェクトが五月雨のように降りかかっているため、そのくらいしか時間は取れない。
 私は会ってすぐに、男と打ち解けた。
「プライベートって言葉、ムカつきますよね。私は仕事よりプライベートを優先するとか言っている男を見ると虫酸が走るんです」私が熱く語ると、男はそれに負けないほど熱く返してくる。
「本当ですよ。人生は仕事が全てだってことをあいつらはわかっていないんだ。だから、プライベートとか言う言葉に甘えて逃げたがるんだ。人間にプライベートなんて言葉はいらないんですよ。人間というものは仕事をするために生まれてきているんです。これ絶対です」
 私は相手の言葉に感動して、すぐさま逆プロポーズをした。
「結婚しましょう。貴方みたいな男を私は待っていたんです」
 すると相手はカバンから小さな箱と紙を取り出して言う。
「僕もそのつもりで来たんです。さあ結婚しましょう。今すぐ。これが結婚指輪で、これが婚姻届です。あなたの名前の印鑑も用意しておきましたので、ここにサインしてください。この足で区役所の夜間書類受理課に提出してきます。結婚式とか結納とかそういうのは無駄なんでやめましょう。そんなことをしている暇があったら仕事をしていたほうがいい。そうでしょう?」
「はい!」私は指輪をもらい、婚姻届にサインをした。こうして結婚が成立すると、私は会社に戻った。
「高橋マネージャー、どこ行ってたんですか? いきなりいなくなっちゃうから、ここのやり方がわからなくて」私の指示がなくて困っていた様子の青木が訊いてくる。
「ごめんごめん。ちょっと結婚してきたんだ」
「結婚?」
「そうそう、そうなのよ。チャチャッとね。それよりも、そんな仕事以外の私語はいいから、早くプロジェクトの件、進めておいて」


 男との家庭はと言うと、それはもう、私が理想として思い描いていたものだった。2人が家庭を顧みずに仕事に集中できる環境を作る。私と男は激務を次々とこなし、順調に出世をしていった。年収ももちろん、2人が会った頃の5倍くらいにはなっていた。私と男はほとんど家にも帰らず、事務的な連絡をメールでするくらいだったので、年に2回くらいしか会わなかった。だからたまに会ったときは、「仕事どう?」「調子いいよ」と言ったくらいの会話しかしなかった。
 私たちは50歳になり、60歳になり、ますます働き盛りの年齢となった。さすがに70歳になると2人とも全盛期より仕事が減ってきたため、2人で会う回数も月1回ほどに増えた。私たちは本当に仲が良かった。だってそれはそうだろう。普通の夫婦が毎日毎日顔を合わせてお互いに飽きてしまうような期間をまだ2人は生きていないのだ。夫がある日、2人が結婚をしてから一緒にいた時間を換算してみると、わずか2週間にしかならなかった。私と夫は70歳を過ぎてもまだ新婚生活の真っ只中というわけだ。
 しかも、私たちは老後の心配にはならないような、唸るほどの金があった。これくらいの大金があれば、100歳まで毎日豪遊したとしてもなくなることはないだろう。私は確信する。世界にこれほどの幸せな夫婦は絶対にいない。最後に今の若い人たちに言わせてほしい。プライベートなんて人生には全く必要ないのだということを。