偶然の苔アイドル

 マンモス団地に住む専業主婦・苔畑朔美(こけはた・さくみ)22歳は、年甲斐もなくアイドルを目指していた。小さい頃に一度夢見たアイドル。16歳から19歳まで、ヴォーカルやダンスのスクールに通っていたが、19歳の時にナンパされた男にベタ惚れしてしまい、結婚することになった。そのおかげで夢からはしばらく遠ざかってしまっていた。
 しかし、旦那の理解もあり、朔美は再びアイドルを目指すことにした。特に仕事はなかったから、旦那の帰りを待っている間、掃除や洗濯をしながら一人でレッスンを頑張った。朔美は16歳の頃は、若さと情熱だけでアイドルになれると思っていたが、もう22歳だったので、正攻法で攻めて若い子に勝てるとは思わなかった。かと言って彼女にはこれといった趣味もなく、勉強も苦手だったため、人のやっていないことをやって認められるしかないと考えた。
 そこで思いついたのが苗字だった。朔美の旧姓は佐藤で、小さい頃からありきたりすぎて嫌いで仕方がなかった。少しばかりカッコいい男がいても、その男の名前が佐藤だとなんとなくNGになったほどだ。そこで苔畑という珍しい苗字の男と出会ったことで、自分もこのような珍しい苗字になれるかもと打算的に結婚を意識したのも事実だ。実際に朔美は苔畑という苗字になってからというもの、旧姓の佐藤に別れを告げられることが嬉しくて仕方がなく、暇さえあれば苔畑朔美という名前を新聞の余白に落書きした。
 そうだ、“苔アイドル”というのはどうだろう。ある日、朔美は思いついた。全身苔のようなモスグリーンの服ばかり着て、異常に苔に詳しかったら世間は珍しがるに違いない。しかも本名が苔畑なのだ。そんじょそこらの企画アイドルとは違う。朔美はそう確信し、図書館で苔の本を買ってきて読み漁った。
 朔美のこの作戦は見事に成功した。ある日受けたオーディションの面接で苔のことを力説すると、ぶっちぎりの倍率を勝ち抜いて合格。すぐさまデビューが決定した。朔美は自己プロデュースにも長けていないと生き残っていけないと思ったから、デビュー曲の作詞も担当した。朔美には詞を書く才能はなかったが、そこに団地妻としての悲哀とやりきれなさを込めることができた。ファーストシングル『苔みたいな女の子』は夢をなくした同世代たちの共感を呼び、新人としては異例の20万枚を売り上げた。
 以後彼女は、日本人を苔にたとえた曲を次々と出すことで、人々の心をつかんだ。苔は群れないと生きていけないが、それゆえにとんでもない粘りとパワーを発揮する。彼女のメッセージは、自分たちのことを自虐的に嘲笑しながらも誰かに認めてもらいたい日本人の琴線をビシビシと震わせたのだ。
 こうしてセカンドシングル『苔の国』、サードシングル『苔人生』は共に50万枚を突破し、ファーストアルバム『ぼくたち苔だね』はダブルミリオンを記録した。
 やがてサクミ・コケハタの名前は海外でも人気を集め、モスガールの愛称で親しまれた。“コケ”の愛称で親しまれるアトレティコ・マドリード所属のサッカー選手、ホルヘ・レスレクシオン・メロディオともCMで共演した。もはや彼女は苔、もしくはmossと言えば苔畑朔美と思われるほどの存在となっていた。
 そんな彼女の活躍をTVで観る夫の苔畑健太郎は不思議な気持ちだった。もちろん自分の妻が人気者になるのはうれしい。自分の両親も親戚も、「苔畑姓をワールドワイドにしてくれた!」と言って喜んでいる。ただ、健太郎は思うのだ。もし自分がモスバーガーでケチャップの場所がわからなくてウロウロしている彼女を見かけて声をかけなければ、苔畑朔美は誕生していなかったのだということを。おそらく自分と出会わなければ、彼女は佐藤朔美という平凡な名前で、泣かず飛ばずのB級アイドルで終わっていただろう。それがいまや苔畑朔美がいることで励まされている者たちはたくさんいて、彼女は同世代のカリスマと言われている。しかし、それもこれも、自分のあの日のあの瞬間がなければ存在しなかったのだ。人生は偶然の産物だというが、これはその最たるものではなかろうか。