無気力の杖

 いざ杖を前にすると緊張してしまうものだ。手を洗い、深呼吸をして、ついに憧れの杖を手に取る。
 今年で59歳になる吉永翔はついに今日、無気力の杖を購入した。無気力の杖は価格が5500万円とおそろしく高価なため、一部の富裕層にしか買えないと言われている。吉永は決して富裕層ではないが、25歳の頃にマイホームと結婚をあきらめ、無気力の杖を買うことだけを目標にして企業戦士として闘ってきた。
 吉永が無気力の杖を買うことを決意したのは、自分の辞書には「無気力」という言葉がないからである。子供の頃から働きバチ的な性質があると言われてきた吉永は、周りにいる無気力な人々の気持ちが全く理解できなかった。目の前に仕事があるとやってしまうし、目の前に仕事がなくても、自分から仕事を探してしまう。そんな吉永にとって、何もせずにサボっている人たちは憧れの的だった。
 吉永が大学を卒業し、社会人としてバリバリ働いていた頃、深夜の通販番組で無気力の杖が売られているのを知った。価格を聞いて目が飛び出たが、このまま馬車馬のように働いて貯金していけば、自分のようなサラリーマンで購入することができるかもしれない。そう決意した吉永は、同僚からのゴルフや飲み会の誘いも断り続け、貯金に励んだ。
 そして定年退職となる60歳まで1年と迫ったとき、ついに貯金額が5500万円を超え、購入するに至ったわけだ。
 無気力を手に入れるために、わき目もふらずに働きまくる。人はそういった行動をバカげていると言うかもしれない。だが、吉永にはこうするしか道はなかったのだ。吉永のような優等生は、自分から進んで無気力になることなどできなかったのだ。
 はやる気持ちを抑えて、無気力の杖を握ってみる。感触は高尾山で売っているような普通の木の杖と変わらない。それでも吉永の体内には今まで味わったことのない気持ちがゴゴゴと音を立てて溢れていた。これが無気力と言うものなのか。吉永はその甘美な感覚に酔いしれ、膝をつき、床に寝転がった。ごろーん。むにゃむにゃ。なんなんだ、この気持ちよさは。起きる気はしなかった。このまま何日も眠りこけてしまおう。そして会社に行くのはもうやめよう。退職届を書くのも面倒くさいから、連絡もしないでおこう。