シャンプーの残り香

 岡山駅から鈍行に乗ってやってきた広島駅で、商店街をあてもなくブラブラと歩いていると、アツシの鼻は突然覚醒した。鼻の穴は全開に開き、鼻毛の一本一本がイソギンチャクのように波打ちながら、その匂いを逃してなるかと暴れまくり、鼻と脳をつなぐ嗅覚の管はまるで極太の胃カメラをぶちこんだかのように膨張した。アツシがその匂いの方向を振り返ると、一人の女性が歩き去っていくところだった。アツシはこんな機会は二度と訪れないだろうと思い、躊躇することなく女性に近づいていった。
「すいません、丸茂ハズキさんですよね」
 アツシは昔よくテレビで活躍していた女優の名前を口にした。いきなり話しかけられた女性はサングラスごしに不審そうな顔をうかべ、つばの広い帽子を深くかぶり直した。
「間違いありません。丸茂ハズキさんでしょう。シャンプーの残り香がしたんです。今あなたが頭につけているシャンプーは映画『はじめの22歩』と『ジョニーのたくわん工場』でつけていたものと同じものでしょう。あなたが正体を隠したい気持ちはわかります。細々と引退して、その後の行動は知られたくなかった。だからファンクラブのことも無視して、何の会見もないまま音信普通になったんだ。でもね、私はあなたのファンクラブの会員番号1番なんです。せめて、一言くらい別れの挨拶をさせてもらってもいいじゃありませんか。そうでしょう」
「シャンプー? 何を言っているんですか。あなた頭おかしいんじゃないですか」
「いや、説明不足で申し訳ありません。私には特殊な能力がありまして、映像で匂いを判別することができるのです。私はあなたの出た映画やドラマをチェックして、その匂いを身体に覚えさせました。この能力さえあれば、絶対にあなたに会うことができると思って、この6年間日本中を旅して回っていたのです。まさか広島県にいるとは思いませんでしたが、この日は必ず来ると思ってました。お願いです。サインください。そして写真を一緒に撮ってください。それだけで私の気持ちはすむんです。丸茂さん、丸茂ハズキであることを認めてください。お願いします」
 丸茂は確かに映画『はじめの22歩』と『ジョニーのたくわん工場』のときと同じシャンプーをつけていた。彼女はやがて観念したかのような表情を浮かべ、言った。
「わかりました。確かにあのときと同じシャンプーをつけていたわ。この6年間、一度も私って気づかれたことがないのに、まさかシャンプーで足がつくとはね。いいわ。あなたのためだけにサインと写真をお引き受けします。その代わり、このことは誰にも言わないように。いいわね」
「はい!」
 アツシは子犬のように喜び、丸茂がサインをするのを眺めていた。その瞬間、アツシの頭の中にはこれまでインターネットのテレビ電話サイトで知り合った女性たちの顔が次々と浮かんでは消えた。アツシはそのような特殊な能力があったから、好みのシャンプーの匂いがする女性を中心に選んでメールを送った。やがてテレビ電話で会話するようになると、アツシはやたらと女性のシャンプーの匂いを褒めた。しかしほとんどの女性が、この実際に会わないでも匂いを嗅ぎ分ける奇妙な能力を持った男を気味悪がり、会うことを拒んだ。そのうちの一人はアツシのこの能力を、「変態的で全く人類の役に立たない行為」と言って罵倒した。アツシはこの女性から「鼻の粘膜を焼ききって、普通の男性に戻らないと一生彼女なんかできない」とも言われて実際に焼こうか悩んだが、こうして丸茂ハズキに会えた今は、そのとき能力にフタをしなくて本当によかったと痛感している。