渋谷いずうぉっちゅんにゅー

「すいません、渋谷はどうやって行くのですか?」
 このような質問を今日は7回された。これまでの人生において、自分は人から道を聞かれるようなタイプではなかったというのに。腰まで垂らした長髪と、根っからの風呂嫌いなことから起こる体臭により、たいていの人間は自分と距離を置きたがる。それなのに、7回も声をかけられるとは。しかも、全員が全員、渋谷に行きたいとはどういうことだ。
 私は家に帰るやいなや、冷や汗で湿り気味の長髪をヘアゴムで束ね、パソコンに向かうと、「渋谷」と入れて検索してみる。すると、一番上に出てきたのは、「渋谷が○○○○を見張っている Shibuya is watchin’ you」と言うサイトだ。○○というのは私の本名である。私は普段バンドマンをやっており、水沼ポートボールというステージネームを名乗っている。だから、私の本名と言うものは、バンドのメンバーでも知らないはずである。それが、なぜこんな公式の場にアップロードされているのか。私は怖くなり、サイトを開けてみる。すると、そこにはただ一言、「隣人を訪ねろ」と書いてあった。
 私はため息をつく。隣人は私の一番苦手なタイプなのだ。私は小心者で、内向的で、嫉妬深くて、そんな鬱々とした気持ちを文学的な歌詞に込めて歌うバンドマンである。隣人はその真逆なタイプで、声が大きく、いつも高らかに笑うような男女の友達を部屋に連れ込み、バーゲンセールでかかっているようなダンスミュージックを爆音でかけながらどんちゃん騒ぎをしている。それでいて、ビジネスマンとしての顔もしっかりと持っており、私がスタジオのオールナイトの練習から疲れた顔をして帰ってくると、ビシッとしたスーツを決めて仕事に行くのだ。そのときすれ違うときの気まずさと言ったら、ない。
 私はしかし、今日7回も声をかけられたことや、この奇妙なサイトの存在により、かなり気持ちがビビッていた。もともと小心者なのである。このままサイトの指示を無視したら、見知らぬ権力から空爆でもされるのではないかと思い、勇気を出して隣人を訪ねることにした。私が帰宅したとき隣人の家には明かりがついていたし、今日は誰も友達を呼んでないようだ。私は鏡を見て、軽い発声練習をした後に、サンダルを履いて玄関を出る。震える指を鎮めてからピンポンベルを押すと、隣人が出てきた。
「あ、あ、あのう、おう」指だけではなく声も震えていた。私は頑張って声を振り絞ろうとしたが、それを隣人がさえぎった。
「わかってます。渋谷でしょう。お入りください」
 私は隣人の勧めるままに部屋にあがりこむ。そこにはドラマのようなオシャレな間取りの部屋があった。自分の書いた暗い詩が貼りめぐらされている私の部屋とは大違いである。
「○○さん」と隣人は切り出した。私はなぜこの男も本名を知っているのだ?と思ったが、疑問ははさまなかった。自分が予測できないほどの大きなものに巻き込まれつつあることがわかっていたからだ。
「○○さん、あなたをここに呼んだのは渋谷です」隣人の言葉の意味はわかりかねたが、私は沈黙してただそれを聞いた。「渋谷はあなたを気に入っています。これまで渋谷は、あなたのようなタイプには興味がありませんでした。しかし今、渋谷は変わろうとしています。あなたのような内向的で無口な人間を必要としているのです。別に渋谷はあなたに危害を加えません。ただ、見張ってるということをカミングアウトしたまでなのです。どうかそのまま、渋谷に見張られていることを意識しすぎずに、これまでの○○さんでいてください。僕が言えるのはそれだけです」
 私は一生懸命隣人の言葉の意味を追いかけようとした。適切な質問を次々と挟もうとした。しかし、辛うじて私の口から出たのは、2つのどうでもいい質問だった。
「な、な、なぜあなたがそんなことを知っているんですか?」
「それは言えません。私は渋谷に近い人間ではありませんが、今回○○さんへの伝言を頼まれただけです」
「ぼ、ぼ、僕はこれまでどおりでいいんですか? 渋谷だからとか、そういうことを意識せずに?」
「はい、今までどおりでいてください。渋谷があなたのことを見張っていると告げた今、追加のメッセージは特にないと思います。もしまた僕を通じてお伝えすることがあればお教えしますが、たぶん今後は別の人間―――たとえば、今日あなたに道を聞いたような通行人を通じて行われるでしょう。ちなみに僕がこのメッセージを伝えたことはバンドのメンバーにも言わないでください。もちろんご家族にも。あ、ご家族とは3年ほど連絡を取ってないんでしたね。その心配はないですね。失礼しました」
 私は礼を言い、隣人の部屋を後にした。もう一度パソコンで「渋谷」を検索すると、ウィキペディアの渋谷が出てくるだけだった。私は以後、若干の気味悪さを感じながらも普通の生活を続けている。バンドとスタジオと部屋を行ったり来たりする毎日。隣人は相変わらず大きな声で友人たちと騒いでいるし、私と会っても挨拶をしない。
 私はあの日以来、渋谷には怖くて行っていない。しかし、バンドのメンバーから「最近、渋谷が変わってきているらしいぜ」と言う噂を耳にした。どういう風に変わったのか聞きたい気持ちもあるが、怖くて聞けない。