あいさつ教室からの独り立ち

 スケゾウがあいさつ教室に通うようになり、2年と3ヶ月が過ぎた。最初はあいさつ教室?と半信半疑だったものの、通いだしてみるとみるみるうちに成果があがり、昨年転職した先の会社ではハキハキと挨拶をするスケゾウ君というキャラ設定が同僚たちの間に浸透した。まったく、教室に通うまでは人と目を合わすこともできず、人から挨拶されても会釈すらできなかったあの男が、である。
 しかし、スケゾウは今、強烈な不安に苛まれている。あいさつ教室に入って以来、これまでマンツーマンの指導をしてきてくれた島田先生が辞めると言い出したのだ。スケゾウは言うならば、島田先生がいるからこそ自信が増し、挨拶を出来るようになったようなものだ。もしも島田先生が退職するとなれば、もうひとりのメイン教師である中本先生がスケゾウの担任になることが決まっている。
 スケゾウは何度か島田先生が休んだときに中本先生の指導を受けたことがあったが、決定的にそりが合わなかった。島田先生は挨拶が出来ない自分を尊重してくれるのに対し、中本先生はどうしてそんな簡単なことができないのだという欠陥人間のような目つきで見るのだ。中本先生を目の前にすると、スケゾウの心は萎縮し、以前の挨拶が出来ない頃の自分に戻ってしまう。そうすれば、今の会社での地位も危うくなり、以前と同じようにイジメが起こり、再び転職しなくてはならなくなるかもしれない。
 スケゾウは島田先生の最後の指導が終わった後、こっそりビル裏の自動販売機の脇に島田先生を呼び出した。
「何、あらたまってどうしたんだ」
スケゾウは意を決して言った。
「辞めないでください。先生が辞めたら僕はもうこの先、生きていく自信がない」
「何を言うんだ。君は大丈夫だ。中本先生だって優秀な先生だよ。あの人は元大学教授でコミュニケーション学の博士号を持っているんだから。それに比べて、私はしがない脱サラ教員で、なんの取り柄もないんだ。今後は実家の農業を手伝うことにするよ」
「博士号なんて関係ありません。僕は先生の指導を受けたいんだ」
 スケゾウのあまりの剣幕に島田先生はひるみ、妥協案を示してきた。
「よしわかった。じゃあこうしよう。君がもし前のように挨拶が出来ない人間に戻ってしまったら、いつでも電話しなさい。私の電話番号は知っているだろう」
「電話じゃダメなんです。会って指導してくれないと僕はダメなんです」
「じゃあ、月に1回くらい会うのはどうだ。私も東京に用事があるときはあるから、そのとき個人レッスンをしようじゃないか」
「本当ですか?」
「ああ。いいよ。私も君の今後が気になるからな」
 こうしてスケゾウと島田先生の月1回の個人レッスンが始まった。週2回から月1回に減ったことにより、多少の不安を持ちながら人と接するようにはなったが、定期的に島田先生に会えるということがスケゾウにとっては大きかった。相変わらず中本先生は尊大な態度で威圧的な指導を行っていたが、また翌月に島田先生と会えるのだと思うと、なんとか誤魔化しながらやりすごすことができた。しかし、このまま何年も島田先生と会い続けるというわけに行かないこともスケゾウはわかっている。スケゾウは33歳、島田先生は66歳。こんな関係も持続することができてせいぜいあと3、4年だろう。なんとかしてそれまでに独り立ちしなくてはいけないのだ。