先生、脳がかゆいんです

 前々からヨーコ先生には個別相談していた事柄だった。それは私の脳がかゆくてかゆくて仕方がないことだ。先生はおそらく成長期にありがちなことではないかと言って、様々な文献などを読んで対処法を調べてくれた。
 そして今日、先生が連絡をとってくれた脳学者の三沢正嗣先生という方の家にお邪魔することになった。三沢先生なら私もテレビに何度か出ているのを見たことがあったから知っている。三沢先生が言うには、脳がかゆみを感じるのは、ごく一部の天才少年に見られる兆候であり、もしも私がそれに該当するならばアメリカの特殊教育機関編入させて高度な教育を受けないと脳の回路がショートするとのことだった。場末の公立高校の授業では脳が満足しないと言うのだ。
 ヨーコ先生は三沢先生という大物に会うからなのか、普段と全く違うようなばっちりメイクで決めてきた。私は待ち合わせをしたとき、誰だかわからなかった。夜の街で見かけたならば、間違いなく水商売の女性だと勘違いしただろう。ヨーコ先生は匂いのきつい香水もつけていて、鼻炎を持っている私は一緒に歩きながらクシャミばかりしていた。
 三沢先生の家は東郷河川駅からバスに乗り換えないといけないのだが、東郷河川駅にあるイトーヨーカドーの前を通ったときに、ヨーコ先生が突然「ちょっといいかな」と言ってイトーヨーカドーに入っていった。私は5分かそこらで出てくるのかと思ったら、全く戻ってこない。不安になった私が店内を見に行くと、ヨーコ先生は婦人服売り場で試着をしている最中だった。
「先生、早く行かないと三沢先生が待っているよ。遅くなるとバスの本数がなくなるよ」
「ちょっと待っててよ。私が着てきた服、なんとなく気に入らなくなっちゃったからここで買っていこうと思って」
 私は興味のないゲーム売り場をブラブラして再び婦人服売り場に戻る。すると、ヨーコ先生はまだ試着をしているところだった。しかも、手に持っている候補服ははるかに増えている。50歳くらいの女性店員も、ヨーコ先生があまりに何度も試着したり脱いだりを繰り返すものだから、体力の限界に達したのか肩で息をしている。私は気の毒になって、女性店員に「代わりましょうか。僕の先生なんです」と言った。しかし女性店員は、「これが私の仕事なんで」と言って聞かない。百貨店店員の鑑のような人だった。
 私は時計をこれみよがしにチラチラと見やり、時間がないんだぞということをアピールしようとした。しかしヨーコ先生は全くこちらのことなど見ずに、「水色は眉毛の印象を強くするからなあ」などとつぶやいている。
 私は思い切って、「先生が行かないなら、僕ひとりで三沢先生のところに行くと思うんですが」と言ってみた。すると、ヨーコ先生は鬼の形相でこちらをにらみ、「そんなことしたら、あんたタダじゃおかないからね!」と怒鳴った。田舎のデパートには似つかわしくない、そのあまりの大声に私も女性店員も小さくなり、遠くのゲームコーナーからはショックを受けて泣いている子供たちの泣き声が聞こえてきた。私はあきらめ、商品も何も置いていないスペースを見つけ、背中を壁にもたれかけて眠りについた。
 目覚めると、午後7時半だった。私はほとんど期待を抱かずに試着室に戻ると、案の定まだヨーコ先生は試着をしていた。先ほどの女性店員はダウンしてしまったのか、若い女性店員に代わっており、これまた肩で息をしながらダウン寸前と言った様相だ。デパートは試着の制限時間というものを設けたほうがよいのではないだろうか。もしこれでヨーコ先生が洋服を買わなかったとしたら、店員たちの一日はあまりに無意味なものになってしまうではないか。
 確かここのヨーカドーは午後8時までだったから、早くしないと閉店してしまう。終バスもなくなってしまう。私はその旨をヨーコ先生が知らないのではないかと思って指摘してみた。すると、ヨーコ先生は再び鬼の形相に逆戻りし、「だからうるさいわねって言ってるでしょ! だからあんた脳がかゆいって言われるのよ。脳がかゆい分際で、私に指図するんじゃないよ!」と怒鳴った。若い女性店員はその怒鳴り声を聞いて失神した。体力の限界だったのだ。私はツーンと耳に痛みを感じながら、ヨーカドーをあとにした。私の心は怒りで震えていた。脳がかゆいことに何の罪があると言うのだ。あとで発覚したところによると、ヨーコ先生はもともと熱烈な三沢先生のファンであり、脳がかゆいと私からの相談を受けたときからチャンス!だと思ってこの時をうかがっていたらしい。