お天気クレーマー

 本日の最高気温は10度、最低気温は2度。夜の12時を過ぎて日付が回ったので、前の日の気温をノートにメモする。天気予報との気温差はそれぞれ2度ずつだ。
 丸谷の日課は、その日その日の最高気温と最低気温を書き記すことだった。これを各テレビ局が放送していた天気予報と照らし合わせてみると、予報と合致することはほとんどない。丸谷はそんな点に目をつけ、各局にクレームの電話を入れることを日課としていた。
 丸谷がここまでテレビの天気予報に噛み付くのは、小学生の頃のある思い出が理由だ。細かいディテールはここでは割愛するが、天気予報を信じてしまった丸谷が、予報が外れたおかげでイジメにあい、以後の人生で不遇の日々を送らされたとだけ言っておこう。そのせいで、丸谷は天気予報を憎み、自分の二の舞のような悲劇が二度と起こらないように、世間の人たちの気持ちを代弁してクレーム電話を入れることだけを日課にしている。丸谷は仕事は無職で、世間的には親のスネかじりとも言えるが、丸谷は自分には働いている暇などないと自負していた。その時間があれば、一本でもクレームの電話を入れて、世を正しい方向に導いていかなくてはならないのだ。丸谷の親は息子にいくら言っても説得しないので、放任を貫いていた。
 テレビ局にクレームを入れても意味ないのだから、気象庁に電話をするべきだという人もいるだろう。ただ、丸谷は各局の天気予報のあり方についても一言ある人間だったから、クレームに建設的な意見を添えることをしたかったのだ。そしてもうひとつ、丸谷には大きな楽しみがあった。各テレビ局のクレーム対応は女性の人間が多いため、彼女たちと公然と長電話できることが何よりもうれしかったのだ。
 丸谷は毎日電話をかけているから、名前と声も一致した。時には向こうが名乗る前に、こちらから名前で呼びかけることもあった。丸谷が一番好きな声の女性がいた。テレビ朝日のクレーム対応をしている長沼さんという女性だった。しかしクレーム対応の人間は各テレビ局が複数人配置しているため、丸谷は長沼さんに当たるまで何度もクレーム電話をかけ続けた。まれに運悪く、一日中かけても長沼さんにつながらないときもあり、その場合は長沼さんが出なかったことに対する苛立ちを全て電話に出た女性にぶつけた。女性が泣き出すことなんて日常茶飯事だった。その一方で、長沼さんに対する口調はかなりやさしめだった。
 長沼さんとの会話の記録は全て録音してある。いつか結婚したときに、思い出のテープとして必要になることがわかっているからだ。昨日長沼さんと話したときには、「3度の違いは大きいですよ」と話しかけたら、長沼さんも「そうですね。3度の違いは大きいですね」と同じことを言ってくれた。これで丸谷は、長沼さんと心が通じ合っていることを確信したし、2人たちは似たもの同士だと言う事がわかった。きっと結婚した後でも、趣味やライフスタイルの違いで揉めることはあるまい。
 そんな風に毎日舞い上がっている丸谷だが、ここだけの話、長沼さん以外にもお気に入りはいる。日本テレビの吉永さんと西田さん、フジテレビの菅野さん、テレビ東京の井筒さんだ。吉永さんはいつも声が元気なさげなので、いつか会ったら元気づけてあげたい。西田さんは丸谷が天気のうんちくを話しても興味深そうに聞いているから、天気に詳しいのだろう。菅野さんは声が茶色くかすれているから喫煙者。井筒さんは声を伸ばしたときのビブラートが美しく、カラオケ好きに違いないから今度カラオケに行こうかとは思う。まあ、自分がこれだけ浮気性だとしても、長沼さんには言えない。たぶん一途だと思われているだろうから幻滅させてしまうかもしれない。
 丸谷は毎日誰と電話で話したかをメモっているため、自分との相性の良し悪しもわかる。たとえば、今年に入ってから話した数だと長沼さんの260回がダントツで1位だが、2位の児嶋さん(フジテレビ)の190回もなかなかのものだろう。もう児嶋さんは丸谷が自分の名前を言わなくても誰だかわかってくれるみたいでうれしい。児嶋さんの声は個人的にタイプではないが、やはり恋愛においてはこういう相性とか縁のプライオリティは高いと思う。
 そんな丸谷にとって、何よりも寂しいのが、クレームする内容が全くないときだ。月に何日かは、天気予報の出した温度と現実の温度がぴったりと合致するときがまれにある。こういうとき、丸谷はクレームする必要もなくなり、一日中誰とも話さないことになるのだ。夕食の食卓を囲みながら、丸谷の父親は「今日はどうした、元気がなさそうだな」と無神経なことを聞き、丸谷は「社会にとってはいい日だと思う。ただ、個人的には切なくて寂しい。きっと僕の大切な人も寂しがっていると思う」と答える。それを聞いて両親は、ずっと一日中家の中にいる息子だが、社会のことをきちんと考えているのだなと感心し、インターネットを介して女性とも知り合っているのだなと胸をなでおろす。